第十七話 白昼夢
おそらく魔王は、玉座の間にでもいるのだろう。少なくとも、王とは暇さえあればそこにいるものだと、そんな偏見がリュースにはあった。
かつて、魔物との死闘を繰り返し、薄汚れた大剣を引きずる手前で持ち運びながら昇っていった階段を、今は堂々と上がっていく。「かつて」と言ったところで、実際はそう遠くない過去のことだが、この城へ独りで来たことは、もう遠い記憶のように感じる。
(なんか……おかしいな)
歩きながら、ふと眉を寄せる。
医務室を出てから、なにか頭の中が霧がかっているような、そんな感じがした。
この感覚には、覚えがある。最近では、医務室で眠りから覚めた、あのとき。
「くそ……っ」
急速に、目の前の景色が遠くなっていく。階段を一歩、上がることさえままならない。代わりに耳元でこだまし始めるのは、懐かしい声だ。聞くだけで、泣きたくなるような、そんな声。
――リュース……
「っ、やめ……ろ」
平衡感覚がなくなり、その場に膝をつく。頭の中身を、誰かに無理矢理ひっくり返されているような、不愉快感。
胸元の石を握り締め、「やめろ、やめろ」と小さく繰り返す。
「リュース……」
今度ははっきりと、声が聞こえた。はっとして顔を上げると、赤い絨毯が敷かれた階段の上に、女が立っていた。
長い黒髪を緩く一つにまとめて、こちらに両手を伸ばしている。
「リュース」
「あ……」
記憶と寸分違わない、母の笑顔だ。声だ。
思わず、名前を呼んで駆け寄ろうとしたとき。リュースの脳裏にふと浮かんだのは、最後に見た母の姿だった。
いけない――そう思った途端、頭の中に警報が鳴り響く。駄目だ。見たくない。いけない。怖い。
だが身体は動かなかった。目も、母の姿に釘づけで。すでに口は、悲鳴の形を作り始めており、ヒュッと小さく呼気の音が鳴る。
「リュース」
母が、こちらを見て名前を呼ぶ。それだけで、幸せだった。なのに。
唐突に、その胸元に紅い線が走った。鮮血を流し、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちる母を、リュースは固まってただじっと見つめていた。
「あ……あ…………」
無意味に、喉から声が漏れる。震える手が、すがる場所を求めて床を探ると、べちゃりとした温かな感触があった。
視線を落とすと、そこにはエリシアが横になっていた。ただし、今よりも幼い姿で、目をつぶって横たわっている。その頬は大きく裂け、血が止まることなく流れている。
そしてそれに被さるように、男が一人、うつ伏せで倒れていた。セルシオだ――彼から流れ出る血が、リュースが膝をつく床全体を、絨毯以上に紅く染め上げている。
「あ……あ……ぁああぁあッ!?」
悲鳴が上がる。それが、自分の口から出たものだと、しばらくの間、気がつかなかった。頭を抱え、目をつぶり、必死に叫び続ける。それでも、錆びたようなむせ返るほどの香りが、容赦なくリュースの感覚を責め立ててくる。
「やめろ……やめろやめろ、やめろッ」
「――リュースさんっ!」
両腕をつかまれ、正面から名前を呼ばれる。それにはっとして顔を上げると、金色の目がこちらをじっと見つめていた。
「アレ……フィオス」
「リュースさん……大丈夫ですか?」
途端――景色が明るくなる。血の香りも消え去り、頭の中の霧も、ふっと散った。
息がしやすくなり、それと同時に、自分が酸欠に近い状態に陥っていたことを思い知る。夢中で新鮮な空気を肺に取り入れる。それが落ち着くのを見計らってか、アレフィオスが再び、声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「……あぁ、悪い」
手を払い、立ち上がろうとするが、膝が笑っていて動くことができない。
「くそ……っ」
「焦らないでください。落ち着いて……」
「っるせぇ!」
つかまれていた手を振りほどき、息を切らしながらアレフィオスを見る。まだ、自分がどこか混乱しているのを、リュースは頭のどこか遠くで感じていた。
アレフィオスは金色の瞳に影を落とし、うかがうようにリュースを見ながら、小さく「ごめんなさい」と呟いた。それを聞き、思わず溜め息が出る。
「だから、お前はもっとなぁ……」
言いかけてから、「いや」と思い直し、首を振った。今言うべきは、それではない。
「違うな……わりぃ。少し、頭が混乱してて」
「――なにを」
「あ?」
ぼそぼそとアレフィオスが呟くのを、リュースは反射的に訊き返した。アレフィオスはじっとこちらを見つめ、やはり聞き取りにくい声で訊ねてきた。
「なにを、視たんですか?」
「……」
ふと肩から力が抜け、リュースはくたりとすぐそばの壁に寄りかかった。段差に腰をおろしたアレフィオスは、両手をもじもじさせながら、不安げにじっと見つめてくる。
「おまえ、なにを知ってるんだ?」
「……わかりません」
ふるふると、頼りなさげにアレフィオスは首を振った。大の男が今にも泣き出すのではないかと、そんな心配をしてしまいそうなほどに顔を歪めている。だが、リュースを見つめるその目は、どこか真摯だ。
「私は……私が、なにをどこまで正確に理解しているのか。それも分かりません。分からないまま、この十九年間、生きてきました……」
アレフィオスの言葉は、リュースには今一つ理解しかねた。だが、心のどこかに引っ掛かりを覚え、無視することもできない。
「リュースさんは、なにを見たんですか……?」
改めて問われ、リュースは再び溜め息をついた。深く、深く――。自嘲気味にならざるを得ない笑みを浮かべ、口を開く。
「……むかーしの、一番しんどい記憶」
果たしてそれは、どこから言葉にするべきなのか。リュースは視線をさ迷わせながら、無理に露出させられた記憶を丁寧に均していく気持ちで、一言一言を口にすることにした。
「俺は、当時母親と二人暮らしをしていて。その日はたまたま、エリシアとその父親もうちに飯を食いに来ていた」
思い出すのは、医務室で見た夢。ちょうど、あの夢の後の出来事だった。
「その頃、村ではタチの悪い風邪が流行っていてな。村を警備している自警団の連中も、次々に倒れて人手不足だったらしい。うちの村はかなり小さな部類だったから、騎士団も常駐していなかった。
そのせいで――盗賊連中の襲撃に、間際まで誰も気づくことができなかった」
母親のイーシャは、台所で料理の仕上げをしていた。リュースとエリシアは前庭で遊んでおり、それをセルシオがのんびりとした目で見守っていた。
夕暮れ近くの、ただの長閑な光景だったはずだ。だがそれは、凶悪な刃物を持った、剣呑な目をした男が一人現れたことで破られた。
「こんな外れにも、家があったとはな」
男はそう言って、無造作に刃物を振り上げた。それは、一番近くにいたエリシアを狙っており、おそらくエリシアはそれを理解できずにぽかんとした顔を男に向けていた。
(助けないと)
そう思った。そのための力が自分にあることを、リュースは知っていた。
幼い頃から、リュースはイーシャと約束していたことがあった。生まれ持った不可思議な力を、誰にも見せないということを。癇癪を起こしては、部屋の中に暴風が渦巻き、内装をめちゃめちゃにした。その度に、イーシャは辛抱強くリュースに言い聞かせた。
「あなたの不思議な力は、他人に言うことを聞かせるためじゃなくてね。誰かを守るためにあるの」
今がきっと、そのときなのだと。リュースはそう思った。
躊躇いもなく放ったその力は真空の刃となって、刃を掲げた男の腕を切り落とした。すぐそばにいた、エリシアの頬をもろともに切り裂いて。
「ひぁ――」
悲鳴の成り損ないのような音を上げて、エリシアはその場で気を失った。男の腕からは勢いよく血が噴き出し、獣のような咆哮が上がる。
それを見て――リュースは震えた。まだ十歳にも満たない心に、目の前の光景はただただ恐ろしかった。男の肘から先が無くなったことも、幼馴染みの顔から大量の血が流れていることも、それが自分のしでかしたことの結果なのだと思うと、頭の中が真っ白になった。
だから――片手を喪った男が、血走った目でリュースを見ても。残った手で刃物を握っても、反応することができなかった。
「リュース……!」
セルシオが、視界いっぱいに覆い被さってくる。呼び声に答える間もなく、セルシオの身体がびくりと揺れた。聞こえてくる呻き声と、その度に揺れる身体。そしてまた、呻き声。錆びた臭いが、鼻に、肺に無理矢理侵入してきて吐きそうになる。
ようやく、なにが起きているのか理解したとき、セルシオの身体がぐらりと揺れて、リュースにのし掛かるようにして倒れてきた。
奇声を上げて男が去っていく。リュースはただぼんやりと、セルシオの下で倒れていた。これ以上、目の前の世界を受け入れたくなかった。
家の中から、外の騒ぎを訝しんだイーシャがやってきて、悲鳴を上げた。それでも状況を飲み込んだ彼女は、急いでリュースとエリシアの無事を確かめると、家の中に避難させた。ちらりと見えたセルシオの背中は、刺し傷だらけで真っ赤だった。
イーシャは放心状態のリュースとエリシアを、狭い物置に隠した。エリシアの傷には布を当てていたが、手当てする程の時間はなかった。
外がまた、にわかに騒がしくなる。彼女はリュースの頬にキスをすると、「絶対に出てきちゃ駄目よ」と笑いかけ、物置の戸を閉めた。視界は真っ暗になり、騒ぎが一層大きくなったかと思うと、やがてしんと静まりかえった。
それから、またどれくらいの時間が経っただろうか――。リュースは、自分の身体がところどころ痛むことに気がついた。それから、腹が小さく鳴る。
ゆっくりと物置を出ると、部屋の中も真っ暗だった。気づかずにガラスの破片を踏み、ざっくりと足の裏が切れる。その鋭い痛みに、ようやく頭がはっきりしてくる。
荒らされた部屋。リュースが足を進めると、窓から差し込む月明かりに、イーシャの姿を見つけた。床に寝そべり、衣服ははだけ、そして胸から血を流している――。
「そこから先は……また、よく思い出せない」
深く息を吐きながら、リュースは頭を掻いた。
「気がついたときには、俺はエリシアを背負って村の外を歩いていた。そこを、村から上がった火を見て通りかかった冒険者に保護されて、その後正式に引き取られたんだ」
あの日、思い知らされた。
自分の持つ化け物染みた力と、その無力さを。無駄に傷つけ、なにも守れやしない、守られているだけの自分を。
「養父には、戦い方と心構えを叩き込まれた。後から知ったんだが、俺が冒険者になることには、実は反対だったらしい。戦いを教えたのは、自分と手の届く範囲だけは守れるようにっていうつもりで。わざわざ自分から戦いを求めに行く必要はないって。……自分も冒険者だったくせに」
「……」
アレフィオスは黙っていた。だが、リュースの言葉を一言たりとも聞き逃さぬよう、ずっと耳を傾けていたのは分かっていた。リュースがなにも言われたくないのも、きっと察したのだろう。
「それで」
リュースは顎でアレフィオスを指すと、首を傾げてみせた。
「そっちは、なにを話してくれるんだ?」
特に約束は交わしていないが、おそらくそういうことなのだろう。案の定、アレフィオスは否定することなく、小さく頷いた。すっと立ち上がり、リュースを見下ろす。
「私が話すのは……あなたの、その力についてです」
「俺の……力?」
訝しげに訊き返すと、アレフィオスは黙って一つ頷いた。すっと、手を差し伸べてくる。
「来てください。……お見せしたいものがあります」
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