第十四話 シチュー
頭を抱えて縮こまっている自分に気がつき、リュースは一瞬、違和感を覚えた。しかし、すぐに納得する。自分よりも身体の大きい者たちに、よってたかって蹴られていれば、身を守るために自然とそういった体勢になるものだ。
「泣けよ、この化け物」
リュースにそう言ったのは、特に身体の大きな少年だった。名前までは不鮮明だったが、にやにやと見下ろしてくるこの顔はよく覚えている。まだ幼かった頃、率先してリュースに暴行を加えていた少年だ。
幼かった頃――そう、もう十年以上昔の話だ。
だからきっと、これは夢なのだろうと、リュースはそう思った。夢だ。頭に蓄積された記憶が、夢となって再生されている。それだけだ。
「こんだけ蹴られてんのに、だんまりかよ」
少年のうちの一人が、「気持ちわりぃ」と呟く。
「やっぱ、化け物だからかな。おかしいんだよ、こいつ」
そう言いながら放たれた一発が、かばいきれていなかったリュースの鳩尾に突き刺さる。
「……ッ」
堪らず呻き声をもらし、リュースは頭を庇うのも忘れて顔から地面に倒れ込んだ。運悪く石でもあったのか、ぶつけたこめかみが強かに痛む。それにまた呻くと、少年たちが色めきだった。
しかし。
「あんたたち! またリュースいじめてんでしょッ」
そう走ってきたのは、エリシアだった。当然ながら、まだ幼い。だが、負けん気の強い目は、今も昔も変わっていない。
「げぇ。うるせぇのが来やがった」
「あいつ、化け物菌うつってんだぜ。気持ちわりぃ」
げんなりとした口調で、少年たちが口々に言うのを、リュースはどこか懐かしい気分で聞いていた。
「化け物退治して、なにが悪いんだよ」
「うっさいわねぇ! リュースが化け物とか、馬鹿なんじゃないの? ほんとにこの子が化け物なら、あんたらとっくに仕返しされてるわよ」
少年たちを蹴散らすエリシアの言葉に、リュースは頭の中だけで笑った。そう言えば、この頃のエリシアはよくリュースを「この子」と呼んでいた。身長もエリシアの方が大きかったため、まるで年下扱いされているようで、リュースは「化け物」呼ばわりされるよりも、その方が嫌だったものだ。
悪態をつきながら少年たちが去っていくのを確認すると、エリシアは「大丈夫?」と手を差し出してきた。
「……別に」
その手はつかまず、蹴られた腹を抱えながら、リュースはなんとか立ち上がった。これ以上情けない姿を、エリシアに見せたくなかった。
だがエリシアは、リュースの幼い男心など気づいた様子もなく「じゃあこっち」と無理矢理腕を引いてきた。
「なんだよ」
「おうち帰るまえに、父さんに診てもらった方がいいよ。おばさん、心配しちゃうから」
エリシアの父は医者だった。小さな村にとって医者というのは、貴重な存在だ。そのため、数年前によその村から来た身であっても、村人たちに疎外されることはなく――かと言って完全に打ち解けた様子もなく、微妙な距離感を保って、エリシア親子は村に存在していた。
「父さん、患者さん!」
そう言って、エリシアが診療所の扉を開けると、老婆が一人帰るところだった。
「おや。エリシア、遊びに行っていたのかい」
「えぇ、タミラさん。お大事に」
笑顔だが、エリシアの口調は素っ気ない。リュースは黙ってその場をやり過ごす。
「エリシアにリュース。お帰り」
そもそも、顔立ちが整っている方であるため、村の婦人たちからはかなりの支持を集めていた。少年たちが悪態をつきつつエリシアに手を出せないのも、少なからずこのことが影響していた。
「リュース。また随分、こっぴどくやられたものだな」
エリシアの父、セルシオは笑みに苦いものを含みながら、リュースを手招きした。
「どこが一番痛い」
濡れた布でリュースの汚れを拭き取りながら、セルシオが訊ねてくる。普段の治療では、エリシアが手伝いをすることもあるそうだが、リュースの怪我の具合を診るとき、セルシオはたいていエリシアを下がらせていた。エリシアはそれを不満に思っているようだったが、リュースにはありがたかった。
「……このへんが、ずきずきする」
大人しくリュースがこめかみを指すと、セルシオの太い指がそっと、患部に触れた。それだけで、ずきりと痛む。
「コブになってるな。まぁ、これだけ派手にやられてコブ一つなら、随分と上手い受け方をしたもんだ」
おかしなところで褒めるセルシオに、リュースも少しだけ笑う。母のいとこだというこの大人を、リュースは嫌いではなかった。
「最近、メシ食べに来ないね」
「タチの悪い風邪が流行ってるからな。おかげでうちは大繁盛だ」
セルシオが笑うと、一緒に楽しい気分になるから不思議だ。リュースはわざと口を尖らせてみせる。
「セルシオたちが来ると、メシが豪華になるから、早く来てほしい」
「リュースの母ちゃんが作ったもんなら、なんでもうまいだろ。だが、まぁそうだなぁ」
そこまで言われちゃ、とセルシオが指を折る。
「明後日あたりご馳走になりにいくと、母ちゃんに伝えてくれよ。久しぶりに、ポトフとミートパイが食べたいってな」
「……! 分かった」
手当てが終わり衝立から出ると、また新しい患者がいて、エリシアが相手をしていた。自警団の青年で、聞こえてくる話によると、丈夫な彼らの間でも風邪が流行り始めたらしい。
「リュース」
こちらに気がついたエリシアが声をかけてくるが、片手を振って建物から出る。外は素手に日が傾き始めており、中に入る前よりも空気が肌寒い気がした。
リュースらが住んでいる家は、村の外れにある。収穫が終わり土がむき出しの畑の横を通り過ぎ、共有の井戸がある小高い丘を下って、更に雑木林の間にできた小道を歩く。
ようやく家につくと、扉の前で服の汚れを払った。こびりついた泥に眉を寄せ、もう一度強く叩いてから、扉を開ける。
「ただいま。イーシャ」
部屋の中に一歩入れば、暖かな空気と、腹の虫をくすぐる匂いに満ちていた。どうやら、今晩はシチューらしい。
「リュース! おかえりっ」
調理場から母親――イーシャが、リュースの元へと駆け寄ってくる。黒く長い髪は、ゆるく一つに束ねられており、抱き締められると鼻先に漂うシチューの香りが強くなった。
「ん? この匂い……また、セルシオのところに行ってきたのね。どこか怪我したの?」
普段は優しげな母の目が途端につり上がるのを、リュースは見逃さなかった。慌ててコブを指差す。
「これ。ちょっと、転んでぶつけた」
リュースの説明に、イーシャが処置用の布の上から軽く口づける。ずきりと痛みが走るが、それ以上にくすぐったい。
「かわいそうに、こんなに腫らして。……本当にぶつけたの?」
イーシャは訝しげに問いかけてきたが、リュースは思いきり頷き、疑いを払拭しようと努力した。優しい母に心配をかけるのも、事情を知った母が文句を言いに行ってかえって悪し様に扱われるのも、リュースは嫌で仕方がなかった。
イーシャはまだ納得しない表情だったが、リュースがセルシオたちの来訪の予定を告げると、表情が少し明るくなった。
「ポトフとミートパイが食べたいって」
「セルシオったら、いつもそれよね」
くすりと笑うイーシャに、リュースもつられて笑顔になる。ポトフはリュースの好物だし、エリシアはパイが好きだ。その二つを頼むセルシオも、腕によりをかけて作ってくれる母も、リュースはどちらも好きだった。
「イーシャとセルシオが、本当に結婚すれば良いのに」
呟くリュースに、イーシャか驚いた顔をする。
「まぁ、リュース。どうしてそんなこと言うの?」
しまった、と思うが遅かった。村では、イーシャとセルシオがいとこだということを棚に上げて、「イーシャがセルシオに色目を遣っている」という中傷があった。イーシャはそれを知ってか知らずか目を細めると、そっとリュースの髪を撫でた。
「ダメよリュース、そんなこと言っちゃ。セルシオはまだ、エリシアのお母さんを愛してるんだから」
「……でも、もう死んじゃってるじゃないか」
エリシアの母は、エリシアとセルシオが村に来る前に亡くなってしまった。だからこそ、その悲しみから逃れるために、二人はここへ移り住んできたのだと、以前セルシオから聞いたことがある。
「そんなことないの」
イーシャは首を振ると、その場にしゃがみこんだ。黒く優しい目が、リュースの目と同じ高さになる。微笑みながら、イーシャは人差し指でトンと、リュースの胸に触れた。
「セルシオのここにね、ちゃんといる」
意味が分からず見返すと、イーシャは笑みを深くした。
「セルシオだけじゃなくて、エリシアのここにもね。深く大切な部分で、エリシアのお母さんは生きている。そうね……シチューで言えば、ミルクみたいなものかな」
「ミルク?」
「そう。いくら野菜を煮込んでも、ミルクが入らないとシチューにはならないでしょ? エリシアのお母さんはね、エリシアとセルシオの心を作っている材料の中で、とっても重要なものの一つなの」
イーシャは頷いて立ち上がり、「それに」とイタズラっぽく付け加える。
「あたしにとってのミルクは、リュースとリュースの父さんだから、やっぱりセルシオと結婚はできないなぁ」
「……」
リュースはなんと言ったら良いか分からず、イーシャの手をぎゅっと握った。
リュースは、父に会ったことがない。正確には、生まれたばかりの頃は一緒にいたのだとイーシャは言うが、記憶に残るようになる前に、彼はイーシャと赤ん坊だったリュースの前から姿を消したらしい。
もっとも、彼は村の住人ではなかった。たまに村へとやってくる旅人で、当時独りで村の外れに住んでいた母の元に、通っていたのだという。彼があまりに人間離れした見た目だったため、それから生まれたリュースは「魔物の子」だと噂されるようになった。
「ものっっすごいね、美形だったのよ。確かに、こんな田舎の村に住んでたら、あんな美形が同じ人間だなんて思えないくらいにね」
これは、母の談だ。酒に酔い、気分がよくなると、たいていセルシオ相手にそう言って絡んでいるのを、リュースは何度か見たことがあった。セルシオもまた、亡き妻のことをもちだして応戦するのが常であり、二人が血縁者であることを感じさせる。
「あら、リュースったら、手のひらもけっこう汚れてるじゃない」
握られた手の汚れに気づいたイーシャが、声をあげる。まずい、と思い慌てて手を離しかけるリュースの手を、しかしイーシャはかえって強く握りしめた。
「一緒に、手を洗おっか」
その笑顔に、リュースも手を握り返す。その手のひらの温もりも、鼻先に漂うシチューの香りも、その全てが心地よくて。自分の心にとって母親は、シチューを温める火のようだなどと、柄にもなく思ったりもした。
その火が消えることなど、想像もできなかった幼い自分を、いつか悔やむことになるとも知れずに。
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