第十五話 勇者と勇者

 ふと目を開けると、エリシアの顔があったた。黒い瞳が揺れ、じっとこちらの顔を見つめている。


 夢と現実の境界が混ざりあい、一瞬、自分がどこにいるのかも分からなくなる。横たわっている寝台の匂いは、夢の中で感じたセルシオの診療所の匂いと酷似しており、それが余計に頭を混乱させた。


「リュース……大丈夫?」


 大人になったエリシアが、不安げな眼差しで問うてくる。その一言で、記憶が巻き戻る。


 翔んできた槍。警護長との小競り合い。魔王への特訓。


 意識した途端、脇腹がずきりと痛んだ――気がした。布団の中でそっと手を触れると、分厚く包帯が巻かれているのが分かった。


「ドクターが言うにはね。びっくりしちゃうくらいの回復力だから、安心しなさいって」


 わざとおどけた調子で言うエリシアに、「そうか」とだけ返事をする。わざと素っ気なくした、というつもりもなく、ただ思考が今一つはっきりしなかった。薄く霧がかった景色を見ているような――そんな心地だ。


「……おまえが、ずっといたのか?」

「ん……ごはん食べてきなさいって、ドクターに言われたから、さっきまでは食堂にいたよ。その間に……アーティエさんが、来てたみたいだけど」


 そう、僅かに眉を寄せながらエリシアが言う。


「アーティエが……」


 頭を振り、身体を起こすと、さすがに慌てた声でエリシアが止めに入った。


「ちょっと。いくらなんでも、まだ起きるには早いよ」


 それを手で制し、「腹減ったんだよ」と微かに笑ってみせる。実際、頭がしっかりしないのは、急速に失われた血液とカロリーが補給しきれていないからのような気がした。


「どれくらい寝てた?」

「まだ……一日しか、立ってないけど。でも、出歩くならドクターに訊かないと」


 心配性なエリシアの代わりにリュースがドクターへ視線を向けると、部屋の奥で別の作業をしていた彼――あるいは彼女は、軽く肩を竦めて特に止めようとはしなかった。「びっくりしちゃうくらいの回復力」というのは、比喩でもなんでもないのだろう。

 包帯の上から服を着ると、動く際に若干の痛みとひきつる感覚こそあるが、昨日負ったはずの怪我からすれば、確かに随分と順調すぎる回復ぶりだ。


「警護長、アレフさんが落ち込んでるの見て、一緒になって落ち込んでたよ」


 廊下を歩きながら、うかがうようにエリシアが話題を振ってくる。丸一日寝たきりだったリュースは伸びをしながら、「ふぅん」と気のない返事をした。


「リュースは……怒ってないの?」

「なんで怒んだよ。あれくらい真剣にやらねぇと、訓練にならねぇじゃねぇか」


 「報酬をもらってる以上はな」と、胸元の石を指で弾く。それを聞くエリシアの目が、戸惑いに揺れた。


「……あのね。もし、特訓が終わったらさ」


 彼女の言葉は、しかし途中で掻き消された。


「教官っ!」


 その呼び声に、一瞬自分のことだとは気づかず無視しかけるが、数歩進んだところでふと思い出して振り返る。


「なんだ」


 それは、人型の魔物だった。ただし背中には巨大な翼が生えており、光の加減で七色に煌めいている。服は纏っておらず、代わりに羽と同じく美しい体毛が全身を覆い、脚はいわゆる鳥脚だ。それが、窓の外で羽ばたきながらこちらを見ていた。

 人間であれば整っていると言えるその顔に、疲労と焦りを滲ませている。魔物は窓をくぐるとリュースの前に降り立った。


「どうした」

「それが……今朝から数名の有志で、森へ訓練に出かけていたのですが」


 昨日のリュースと警護長の戦いを見て、闘争心を煽られたのだろう。元々、リュースが来る前から、森は彼らの領分だ。怪我を負っている教官の断りなく森へくり出すことに、躊躇いがあるはずもなかった。


「それで、なにか問題があったのか」

「はい……実は」


 森と村の中間地点で、いつものように訓練相手となる冒険者を待っていた彼らは、変わった一行を見つけたという。旅装ではあるのだが、あまり旅慣れた様子でもない男を、軽装の女が負っていた。また、先頭を歩く者は瘴気にあてられた素振りもなく、涼しい顔で歩いている。

 腕試しにちょっかいを出そうとしたのが、間違いだった。先頭を歩いていた者は魔物たちの気配を感じるや否や、腰にはいていた剣を抜きざまに切りつけてきた。その動作は全く隙がなく、慌てた魔物の一人がこうして慌てて、リュースに知らせにきたとのことだった。


「ったく……余計なことしやがって」


 耳を掻きながら、リュースが唸る。


「騎士団じゃねぇのか?」

「いえ……わたしも騎士団は見たことがありますが、格好は普通の旅人といった体で……」


 「ふん」とリュースは腕を組んだ。せっかく仕込んだ魔物たちがやられては、訓練の甲斐がない。警護長あたりは「効果のない訓練に報酬を支払うべきではない」など、また面倒なことを言い出すかもしれない。


「……おまえ、翔ぶと速いのか」

「は、はい。歩きよりは」


 なら、とリュースは思考を巡らせる。剣は手元にないため、おそらく部屋だろう。森へ向かう手段は決めた。それにしても、謎の一行の狙いとは――。


「エリシア、アーティエを呼んで来い」

「えっ。アーティエさん?」


 エリシアが思いきり嫌そうな顔をするが、それは無視し「早く」と促す。しぶしぶ歩きだすエリシアを見送りもせず、続けて魔物に告げる。


「俺は、武器を持ってくる。それまでここで待機してろ」

「はい……あの、でも。教官自ら……?」


 小さくなっていく語尾とその視線が、「動けるのか」と言外に訊いてくる。リュースはにやりと笑みだけを返し、自室へと駆け出した。




※※※




「ギッ!」


 悲鳴をあげて、獣型の魔物が跳び退く。その一瞬後を銀色の刃が追いかけたことを思えば、実にぎりぎりのタイミングがだった。

 しかし、尋常でない剣劇は空間をも切り裂き、鎌鼬を起こした――避けたはずの獣の前肢に、深々とした傷が刻み込まれる。


「まずいな……」


 共にペアを組む魔物が、低く唸る。蜥蜴にも似たその身体からは多量の血が流れており、動けそうになかった。


 獣の脚力をもつペアでさえ、避けきることのできない剣撃。このままでは、おそらくあと数秒後には、二匹とも命がなくなるだろう。


 非情な剣を振るっているのは、旅装姿の人間だった。長い銀髪は高く結い上げられ、藍色の上衣と灰色のズボンには黒々とした血が、べっとりと染みを作っている。その後ろには、別の人間が二人、控えていた。やや青い顔をした女が一人と、更に顔色の悪い男が一人。どちらも上等な服を着ており、森には場違いだった。


 銀髪が、剣の切っ先を僅かに下げる。鋭い呼気さえ聞こえてきそうな、今こそ一歩踏み出す――その瞬間。


 銀髪は目を見開くと、前に出かけていた体重を後ろにずらした。一瞬の均衡――僅かに動きが止まった隙に、リュースは茂みから思いきり踏み出した。

 剣を振るうが、それよりは銀髪が後ずさるのが速い。魔物と銀髪の間に立ったリュースは、ふぅと息を吐き、剣を構え直した。


「なんだ貴様」

「なんだはこっちの台詞だ――王室派遣のお飾り勇者様が、こんな泥臭いところでなにやってんだ」


 相手の胸についている記章を示し、リュースは薄く笑った。剣が角の生えた獣を貫くデザインは、一般にはどうか知らないが、冒険者たちの中では有名なものだ。王室派遣の勇者が長い歴史をもつ優れた存在であり――現在は権威化していることも含めて。


「今は〈剣聖〉とかいうお偉いさんが任命されてるって聞いてたが……女とまでは知らなかった」


 銀髪――ノアは視線を厳しくすると、細身の剣を突き出した。リュースの、喉元をめがけて。


「ぐ……ッ」


 慌てて首を逸らし、つい今自分がいた場所を突き刺している切っ先を確認する。ぞわりとした悪寒が、背筋を走った。


「女だてらに――ってか? そんな男の服着てるだけあるな」

「女と侮り容赦するか」


 髪の色と同じく冷淡な温度の目で、ノアがリュースを射るように見据える。剣は既に構え直していた。


 脇腹の傷が冷えた心地を味わいながら、リュースは「いんや」と笑った。やはり、剣を構えながら。


「悪いが、男と女で扱いを変えられるほどの親切心は、持ち合わせてないんでね」


 互いに相手の呼吸を見る――が、リュースはその間にも、背筋がどんどん冷えていく感覚を味わい続けていた。貴族らしく、細面の繊細な作りをした相手の顔は、実に涼しい表情をしている。リュースなど、まるで気にも止めないような。


(〈剣聖〉、ね)


 噂には聞いたことがあったが、まさかこうして対峙する日が来るとは思わなかった。リュースの剣技や格闘術は、元々腕の立つ冒険者であった育ての父から教わったものだ。それを昇華し、自己流に練り直した部分も勿論ある。特に魔物との戦いに特化し、練ってきた戦闘術は人間相手でも充分効果のあるものであったが。

 しかし、目の前の相手とでは、格が違う。それが、構えているだけで怖いほどに伝わってくる。


 リュースが引きつけている間に、手負いの魔物たちは避難していた。そちらを見ようともせず、リュースを見据えたまま、ノアが口を開く。


「貴様は人間ではないのか? 何故、魔物を庇う」

「一応、この国に認定された勇者だけどよ。生憎……別口のクライアントと雇用契約した身なんで、ねッ」


 言葉を言い切らないうちに、大剣を横に薙いだ。ノアはまるで予期していたかのように、無駄なく、むしろゆったりとして見える動作でそれを避ける。形の良い眉を跳ね上げ、「魔物に魂を売ったか」と唾棄した。


「金で魂を売り買いできたら、苦労ねぇな」

「違うと言うなら、そこを通してもらおう。我らは急いでいる」


 会話の間も、剣は休むことなく繰り出される。上方から薙いだと思えば、その剣先が跳ね上がり顎を狙う。それは突きへと変わりリュースの無防備な喉を狙い、避けるリュースの薄皮を裂いた。そのまま、リュースの首を追いかけて真横に薙がれる。舞いのごとく、細い剣を自在に操るその動きに、リュースはただ受けるので精一杯だ。


「あの、ぼんぼん……随分辛そうだなおい」


 ノアの向こうにいる二人へ視線を走らせる余裕はなかったが、伝わるだろうと口だけ動かす。案の定、ノアの冷ややかな表情に感情が一筋差し込んだ。


「あのお方のためにも、我らは進まねばならん。こんなところで足止めをくらっている余裕はない」

「普通の人間に、この森は毒みてぇなもんだからな。それを、よくあんた、こんだけ平気な面してるな。――本当に人間か?」


 途端、リュースの剣が弾き飛ばされた。


(まじかよ)


 剣の幅だけでも、男の腕二本分ほどもある大剣が、宙を舞って後方に落ちる。それだけでも異常なことであるのに、それを成した相手の得物は細剣だ。全く、意味が分からない。


「貴様は、まるであの剣のようだな」


 鋭い剣先を突きつけながら、ノアが言う。笑いもせず、ただ淡々と。


「大仰な割りに刃は潰れ、所詮なまくら。剣としての役割を果たさぬ剣など無価値。ただの鉄屑だ。

 貴様も、金で身と誇りを売り、勇者であるにもかかわらず役割を果たさぬ」


 じりっと、二人の距離が詰まる。あと一歩も踏み出せば、ノアの剣がリュースを突き刺す。それは数秒後かもしれないし、一瞬後かもしれない。どちらにせよ、刺される身には大差ない。

 ノアの視線は、構えた剣よりも鋭く、リュースを射た。


「勇者としても、人間としても本義を違えている貴様に、いったいどれほどの価値がある?」

「……さぁ」


 空の手を、リュースはぎゅっと握り締めた。笑みを浮かべれば、頬が引きつる。ひんやりと突きつけられた美しい剣先から、無理矢理視線を逸らし、ノアを見て下手くそな笑みを深くする。


「まぁ、なまくらはなまくらだろうよ。でもなぁ――なまくらにだって、それなりに使い道ってのはあるんだよ……ッ」


 突き出したのは、空の両手。突き飛ばすかのような動作で、思いきり前方へ伸ばした。あらん限りの力を込めて。或いは、救いを求めて伸ばされた手のように、見えるかもしれなかったが。


 なにもないはずの手から放たれたのは、衝撃波だった。いや、そうとしか表現のしようがない、風の塊だった。それは目の前のノアを思いきり弾き飛ばした。


「ぐ……ッ!?」


 近くの木に、めり込むようにぶつかったノアは、呻き声を上げた。剣を手放さなかったのは執念か。


 その隙に、リュースは跳ぶように後退り、落ちた自分の剣をつかんだ。ノアを見れば、頭を振りながら身をゆっくりと起こし、リュースを睨んできた。


「貴様……今のは魔力……ッ」


 凪いだ目をしていたノアに、動揺の波が初めて走る。


「どういうことだ……貴様、人間ではなかったのかッ?」

「俺だって、人間相手にを使うのは、ずっと遠慮してきたんだ。でも、相手があんたじゃな」


 ノアの視線が鋭さを増すが、それは無視する。半分笑うようにして、リュースは続けた。


「わりぃが、この森の中じゃ手加減もできねぇみたいだ。思ったより勢いづいちまったな。……ちょいと気をそらせるだけで、良かったんだがな?」

「なに……?」


 リュースの言葉と視線に、ノアがはっと上空を見上げる。木々の隙間から、見えるだろうか――翔ぶ魔物に拐われる、仲間の姿が。


「っ殿下! シオンッ」

「俺たちは魔王城にいる。呑気に歩きながら、せいぜい頭を冷やしてくることだな――〈剣聖〉の勇者?」

「貴様……ッ」


 剣を握りしめ、まるで冷静さを欠いた動きで、ノアが駆けてくる。だがその刃がリュースに届く前に、リュースの背後から雲のような霧が、唐突に生まれた。


「な……!」


 濃密な霧に、リュースもまた視界を閉ざされたが、自分の行くべき方向は理解していた。


「連れの安全は保証してやる。あとは……あんた次第だ」


 戸惑うノアがいるだろう場所へ言葉を投げると、リュースは背を向け歩き出した。

 

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