ホーム(3)
「もしもし?」
スマホを耳に押し当て、そう尋ねた時、ちょうどホームにアナウンスが流れ始めた。「二番線に間もなく列車が到着します。危ないので黄色い線の内側まで下がってお待ちください」。やけに抑揚のない男性らしい声に混じり、スマホからは懐かしい妹の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、今、電車?」
「うん。ホームで待ってる」
おれが答えると、「ああ、どうしよう。切った方が良い?」とためらいがちに
「近々、会えない?」
単刀直入にそう聞かれた。
「どうして」
おれも短く尋ねる。
「会ってほしい人がいるの」
妹からの短い返事に、きづけばおれはまた、ため息をついていた。
「おれには無理だ。あの様子じゃ、あいつらは許さないぞ」
思わずこぼれ出た本音に、スマホからの声が途絶える。途端に耳に入ってきたのは、背後のカップルの甲高い笑い声だった。
「もう、そんなの気が早いよ、ゆうくん」、「だって、出産日なんてきっとすぐだぜ?」
振り返ると、背後の二人は俺に向かって並んで立っていた。
声がでけぇんだよ。うるせぇ。
そんな言葉を奥歯でかみつぶし、おれは無言のまま、背後の二人を等分に見比べた。
多分。
すごい顔をしていたのかもしれない。男は怖気たように肩を竦ませ、女はぽかんと口を開いたまま動きを止めた。
――― 世間は、『やりゃあ出来る』やつばっかりじゃねぇんだよ。
口をついて出そうだった言葉は、スマホから流れ出た琴葉の声に押しとどめられた。
「会うだけでいいの。お兄ちゃん、会ってくれるだけでいいから」
おれは再び線路を向き、小さく咳払いをして声を潜めた。
「その……。障がいがある男なんだろ? やめとけよ」
気付けば早口でそう言っていた。
琴葉はまだ若い。二九だ。
一昔前ならいざ知らず、今では三〇超えての結婚も、三五過ぎての初産だって珍しくない。
今から、もう一度「この人と結婚したい」と思う相手にだって、きっと出会える。
あの時は若かったわ、と苦笑いする日が来るはずだ。
なにも。
なにも、自分から苦労を背負うことはない。
母は嫌いだが、母の言うことは一理ある。
『普通』がこの世の中、一番なのだ。
適齢期に結婚し、結婚数年後に子が生まれ、こどもが自立するまでは母親は専業主婦かパートで過ごす。
それが『普通』だ。
世間が安心し、認め、居場所を与えてくれる『普通』なんだ。
そんな。
世間の『普通』の定義から、ほんの少し外れただけで、おれたち夫婦は今、苦しんでいる。
ただ。
ただ、ちょっと子どもが出来ないだけで。
『普通』から、外れようとしている。
そのことで、傷ついたり、苦しんだりしている。
「その男に断れねぇんなら、兄ちゃんが言ってやる。『この話はなかったことに』って言いになら、兄ちゃん、いつでもその男に会いに行ってやるよ」
自分から道を外れることはない。
『普通』の男と結婚し、『普通』の子を産み、『普通』の生活をするのが一番だ。
おれは心底、そう思っている。
唯一の家族だと思う琴葉には、『普通』でいてほしい。
そう、願っている。
「……わかった、お兄ちゃん。もういい」
だけど。
おれの思いは伝わらなかったらしい。
琴葉は固い声でそう告げ、一方的に通話を切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます