第156話 ローテーブル(6)
「待ってよ!」
すがるように叫びながら、随分と昔の記憶を思い出した。
まだ私が幼稚園に上がるまえぐらいじゃないだろうか。何かの拍子に母を怒らせ、外出先で置いて帰られそうになった。
兄と弟の手を掴み、母は足早に私の前を進む。『お母さん、お母さん』。泣きながら私はその背を追った。『ごめんなさい、ごめんなさい』。そう言いながら走るのだけど、母は決して振り返らない。心配そうに兄は私を何度か振り返るが、弟は意地悪そうに私を見て笑った。
「お母さん!」
私は叫ぶ。記憶の中でも、母は決して私を振り返らなかった。この後、私はどうやって母と仲直りしたのかよく覚えていない。
いや。
この時も。
そして今もそうだ。
母の怒りの原因がわからない。
「コトちゃん……」
リビングに入ると、戸惑うような鳶色の瞳に捕らえられた。
スツールに坐り、どうしたらいいかわらない表情で総君が私と、母を見比べている。
「
そう呼びかけて、扉の前にすっく立つ母の脇を抜けて彼の側に行こうとしたのだけど。
がっちりと私の右手を握られ、がくんと動きを止める。
驚いて右手の先を見て、それから母の顔を見て背筋が凍る。
「
食いしばった歯の間から母は私の名前を搾り出す。
唖然と、その憤怒の表情を見ていたら、ぐい、と手をさらに強く引かれる。蹈鞴を踏んで母の方に近づいた途端、母が私の耳元で小声で吐き捨てた。
「あんた……っ。腕も無い人じゃないのっ」
茫然と、私の手を掴む彼女を見下ろす。
本当に、小柄になったなぁ、と思った。
『お母さん、ごめんなさい』
泣きながら背中を追いかけた時は、大きな、そして頼もしい大人に見えたものだった。ぴんと伸びた背筋や、良く通る大きな声が大好きだった。守ってもらえる。無条件にそう思っていた。
だから。
兄と弟の手だけを引いて置いていかれようとしたとき、心底怖かったのだ。
庇護から外れる、と。たった一人になる。その恐怖心が、私を走らせた。背を追わせた。意味無く謝罪させた。『ごめんなさい』と。
だけど。
だけど、だけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます