第141話 スツール(6)

「いや、もちろんその。生半かにゃ……」

 私がしばらく何も返答しなかったからだろう。


 慌てたようにそう君は話だし、そしてやっぱり噛む。「なんで僕はいつもいつも」と頭を後ろにのけぞらせて呻いたものの、すぐに体勢を立て直し、私に視線を向けた。


「もちろん、生半可な気持ちで言ってるわけではなくて、結婚を前提にお話をしているわけで。あの……、来週にはハロワの障害者専門窓口に行ってみようと思ってるんだよ。退院と同時に仕事ができるぐらいにしようかな、って……」


 ちゃんと、考えてるんだけど、と総君は言いながらも語尾がだんだん小さくなっていく。最後には口を閉じ、黙っている私に困惑した顔で首をかしげて見せた。


「だめかな……」

 そう尋ねられ、私は無言で首を横に振った。


 膝立ちのまま、総君に向かって両腕を伸ばすと、ぎこちなく総君が腕を上げてくれる。私は彼の胴に抱きつき、もたれかかった。


「私は、だめじゃない」

 おばさんがこのアパートに5年は住んでくれ、と言っていたけど、今更もうどうでもいい、と思った。この部屋、やっぱり不吉すぎる。


 私は総君のTシャツに顔を埋める。「よかった」。安堵したような声がくぐもって聞こえるのは、総君の体に私が顔を押し付けているからだろう。


「だけどね」

 私は抱きついたまま言う。


「聞かなかったことにする」

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