第122話 階段(10)

「なにを?」

 私が尋ねると、くすり、と彼女は笑う。


「コトちゃん、お帰り、とか。コトちゃん、あのね、とか」

 あやめさんの視線を受け、そして彼女の話す内容に私は言葉を無くす。


「夢の中で誰かと話してる感じなんですよね。相槌うつときもあるし……。で、そんな時に総一郎そういちろうに話しかけても、こっちの声は聞こえてないみたいで、華麗にスルーだしね」

 あやめさんは肩を竦めた。


「お義母さんと、これはアレだ。こいつ、私たちに隠してやがったけど、カノジョがいたに違いない、って確信したんです。そのカノジョとのことを思い出して、なんか一人で喋ってるんだ、って」


 違う、と何故だか強く思った。

 意識混濁ではない。


 その時。

 リアルタイムで、『わたし』と、会話してたんだ、と。


 夢の中で口にしたことが、実際に口が動いて寝言を発声させるように、時折、そう君が私に話していたことが、彼の肉体を動かしていたのかもしれない。


「もう、『コトちゃん』、って言いだしたら、私たちが見たこともないぐらい、優しい顔で笑いやがるんですよ」


 あやめさんは、『コトちゃん』という部分だけ、総君を真似て口にする。

 そのモノマネが存外似ていて、私は顔が赤くなった。


 恥ずかしい。

 二人だけしか聞いていないと思っていた会話を他人に、しかも、身内に聞かれていたとは。総君、変なこと言ってないでしょうね、と心の中で叱りつける。


 あやめさんはそんな私を見てからかうように少し笑うと、また話を続けた。


「それで、総一郎の会社の人とかに、『カノジョがいるみたいなんですけど知りませんか』って尋ねてみたんですけど、『いや、知らないなぁ』って言われて……。お義母さんと、誰なんだろう、ってずっと探してたんです。そうこうしている内に、病院から、状態が固定しつつあるから、急性期病棟から出てくれ、って言われて……」


 私は頷く。病院側としては打診するはずだ。

 それで、県立リハビリテーションセンターに来た、ということなのだろう。


「県立リハビリテーションセンターに転院する時も、以前いた市立中央病院に、もしも総一郎を訪ねて誰か来たら、転院した、って言ってください、って伝えてたんです。きっと、連絡が急に取れなくなって困ってるだろうな、と思って」

 あやめさんは申し訳なさそうにそう言うから、慌てて首を横に振る。


「で。県立リハビリテーションセンターに転院して、一週間ぐらいしてかな。急に『起きた』んです」


 あやめさんが語るには、今までそんな寝言のような妙な言葉しか話さなかったのに、ある朝、急に「おはようございます」と看護師の目を見て総君は挨拶をしたのだそうだ。


 そこからは、意識レベル的には信じられないぐらいに回復をし、義足をつけての歩行訓練や、能動用義手を使う訓練をしているらしい。


琴葉ことはさん」


 不意に名前を呼ばれ、私は彼女を見る。

 ロビーから流れ込む橙色の夕日を受け、彼女は静かにほほ笑んでいた。


「総一郎に、会いに来てくれませんか」

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