第117話 階段(5)

「どう……、したいのかわからないんです」


 実際、どうしたかったんだろうと私は机の上を見た。

 閉じられたノートパソコンに、半分千切られたA5の領収書控え。そして、手にはまだ現金を握り締めていて、慌てて引き出しの中にそれをしまった。


「ボラコで大切な事って、感覚だと思うんだよね」

 冴村さえむらさんの言葉がするりと耳に滑り込んできて、私は向かいの彼女を見た。


「この人は私を必要としているのか、とか。このサービスは地域に有効か、とか。見極めと速度が要求されるのよ。ある意味、直感が重要だとおもう。あと、執念深さだな」

 冴村さんは私を正面から見据えて告げた。


「自分の直感に従って一回掴んだ手は、絶対離すな。この手は自分を必要としている、自分も必要だ、と思ったら離しちゃいけない。死んでも離すな。その執念深さも必要だ」

 そう言う冴村さんを、私は上目づかいに見上げた。


「だけど」

 口から漏れ出たのは、情けない涙声だった。冴村さんのような凛々しい佇まいも、鋭角的な視線も持たない私は、ぐずぐずに崩れそうになって冴村さんに言葉をぶつける。


「だけど、私、いっつも間違えるし……。直感なんて……」


 崩れ始めた感情はもう立て直せない。ぼろぼろと目からまた溢れる涙を手の甲で拭った。よかった。ここ最近、面倒くさくてマスカラを塗って無くてよかった。塗っていたら涙で濡れ落ちて大惨事だった。


「この人だ、と思っても。なんか違うし」

「それ、まだ菅原すがわらさんが若い頃の話だろ?」


 冴村さんに指摘され、私はおずおずと頷いた。まだ、二十代前半の話だ。若いといえば若いかもしれない。


「直感は経験に裏打ちされた思考回路だとも言われてる。その直感を信じたときは、経験がまだ足らなくて失敗したんだろ。でも、今はどうだ? 失敗を踏まえて、経験をつんだんじゃないの?」


 促され、私はそれでも首を横にゆっくりと振った。


「わかりません」

 声は自信無げに震えた。


「菅原さんは、ボラコとしての適性、あるとおもうよ。正田さんの件もあるしね」

 冴村さんは腕を組み、私を斜交いに眺める。


「だから、菅原さんの直感、信じてみな。直感に従って掴んだのなら、その手を離すな」

 冴村さんの言葉に、それでも私は素直に頷けなかった。ただ、じっとデスクに視線を落としていると、冴村さんがふん、と鼻で息を抜く。


「相手が手を振りほどこうとしたら、まぁ、諦めればいい。だけど、まだ手を握ろうとしているのなら、手を離しちゃいけない。相手がどうしようとしているのか、まずは確認してみたらどうだ?」

 その提案に、私は躊躇いがちに首を縦に振る。冴村さんは小さく笑った。


「笑顔で会いに行って来なよ」

 そう言って、私を見る。


「笑いなさい」


 命令され、私は両手で頬の涙を拭いとる。

 ぷるぷると首を振ってから、立てた人差し指で口角を押し上げて見せた。ぎゅっと目を細めて「どうですか」というと、冴村さんの朗らかな笑い声が聞こえてきた。


「よし。合格」

 そう言われ、私は噴き出した。


 なんだか、泣いて、愚痴って、笑って。そしてすっきりした気分だ。

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