第110話 受付(4)

 通路にいた幾人かが小さな悲鳴を上げ、杖を突いた男性は派手に転倒した。それなのに、あろうことか瀬田せたさんは詫びるわけでもなく、猛スピードで車いすを自走して逃げ始める。


「あいつっ」

 下川しもかわさんが舌打ちして瀬田さんを追おうとしたけれど、私は彼の手首を掴んで、廊下に座り込んだままの男性を指さした。


「どうせ住所も連絡先も押さえてます。先に、彼を助け起こさないと」

 下川さんは頷き、大きなお腹を揺するように男性に駆け寄った。


「大丈夫ですか」

 下川さんは、廊下に跪いて男性の顔を覗きこんでいる。私はロフストランド杖を拾い上げ、近づいた。


 下川さんの体が陰になり、上半身は良く見えないが。

 床に伸びたままの左足が目に入る。


 あ、と。

 言葉を飲んだ。


 ジャージの裾から見えるそれは、金属製の足継手だ。


 義足なんだ、と思った。


「大丈夫です」

 穏やかな男性の声に、思わず足が止まった。


「立てますか?」

 下川さんが心配げに尋ね、腰を屈める。


「左手、俺の首に回してください。支えるので立ち上がりましょう」

 下川さんの声に応じるのは。

 落ち着いて、そしてどこかこちらを気遣う声だ。


「すいません。左手は義手なので……。前に回って、右手を引っ張ってください。それで立ち上がれますから」


 この声に、聞き覚えがある。


「ああ、そうなんだ。すがちゃん、ちょっとおれ、この人の前に回るから手伝って」

 下川さんが立ち上がり、床に座り込む男性から離れる。


「菅……」

 男性は呟き、私を見上げた。


 下川さんがいなくなり、視界が開ける。

 男性と私の間に、遮るものはない。

 私は、ロフストランド杖を胸の前で抱いたまま、男性を見下ろす。


 鳶色の瞳で、ふわふわの髪をしていて。

 線の細い顎と、形の良い薄い口唇をしている男性を。


「……そう君」

 気付けば、口から名前がこぼれでた。

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