第105話 ベッド(5)

「仕事のこともね。冴村さえむらさんにもっと相談して。そしたらきっと上手く行くから」

「何言ってるの……」

 ようやく絞り出した声に、そう君は口角に笑みを滲ませる。


「大好きだよ、コトちゃん」

 総君は膝立ちのまま、掛布団の上から私を抱きしめた。


 いや、正確には、抱きしめる素振りを見せた。

 私を包むのはただの冷えた空気の塊で。

 彼の重みも、感覚も、ましてや体温なんて感じない。


「もう、行かなきゃ」

 総君が呟く。


「どこに」

 私の声はくぐもった。だけど、ようやく声としてのどから絞り出される。


「行くところ、わからなかったんでしょ? どこ行くの」


「行くところ、分かったんだ」

 総君が小声で答える。「嘘よ」。私は枕に頭をこすり付けるように首を横に振る。


「だって、総君……。私、総君と手とかつないでないよ? キスもしてないよ? 総君、私とお付き合いしたかったんでしょ?」


 まだ何も……。そう言う前に、総君が呟く。


「大好きだよ、コトちゃん」

 そして、わずかに冷気が強くなる。総君がさらにきつく、私に体を近づけたのだと知れた。


「コトちゃん、僕……。いきたくない」


 総君の声が震える。

 語尾が濁った。

 泣いてる。

 総君が、私にしがみつくようにして泣いている。


「総君……」


「離れたくないよ、コトちゃん。いきたくない」


 総君が言った。

 いきたくない。

 それはどういう意味なのだ。


「どこに行くの? ここにいるんじゃないの?」


「いきたくない。いきたくない。いきたくない」

 総君がただただ、苦しげに繰り返す。


「総君」


 なんのことなの。それを問いただそうとした時。

 冷気が消えた。

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