第103話 ベッド(3)

 そのことには気付いていた。


 時折ぼんやりしたり、話しかけても上の空だったり。

 なんだか変な見え方をする両手を、自分でもじーっと見つめていたり、影のできない足元を眺めていたり……。


『コトちゃん、お帰り』

 いつもなら、そう言って仕事から帰宅した私を出迎えてくれるのに。


 定時で帰宅しても、アパートにいないことが増えていた。

 彼のいないアパートの、しんと冷えた室内を見回して私は思ったのだ。


『もう、別れが近いんじゃないか』と。


 そう君は、私の側から離れようとしているのではないか、と。


「僕、コトちゃんのこと大好きだよ」

 総君がはにかみながら私に伝え、私はぎこちなく笑って頷いた。「知ってる。私もだよ」。


 答えてから、そうだ、あの日からおかしいんだ、と気づく。


 あれは。

 無料コンサートを二人で聴きに行った時だ。


 以前仕事で関わった学生が、今では社会人になって市民楽団に入っているのだ、と教えてくれた。今度の日曜日、無料コンサートを開催するから来て欲しい。そんな連絡を受け、私は総君と一緒に、指定された音楽ホールに向かっていた時だ。


『県立リハビリテーションセンターはこのバスに乗れば行けますか?』

 総君と並んで歩いていたら、背後から声をかけられた。


『はい?』

 返事をして振り返ると、小柄なショートカットの女性が私を見上げていた。


 二十代前半ぐらいで、一見大学生のようにも見えたけれど、着ている服や持っているバックの値段から、多分社会人なんだろうな、ということは推察された。


 大きな瞳が印象的で、小顔と相まって小動物のような印象を受ける。私が返事をしたことに、心底安心したようだ。多分誰かに声をかけようと心に決めたものの、なかなか尋ねられずにいたのだろう。足を止めただけで随分と感謝したような顔を私に向けていて、思わず苦笑した。


『どのバスですか?』

 女性に尋ねると、『あの、これ』と駅ロータリーで停車している一台を指さした。私は目を細め、電光掲示板に表示されている路線番号を見る。


『ああ、行きますよ』

 そう答えると、ほっとしたように頷く。


『ありがとうございました、助かります』

 ぺこりと頭を下げ、地面に置いていた紙袋を二つ持って足早にバスに向かって歩きはじめた。見るとはなしに視界に入った紙袋の中身は、タオルや着替えのようだ。


『県立リハビリテーションセンター、って?』

 その背中を見送っていたら、総君が静かな声で尋ねてくる。街中で声をかけてくるのは珍しいな、とその時疑問を感じたのは確かだ。私が人目を気にして返答できないことを知っているから、普段であれば『返事が必要な内容』を話しかけてこないんだけど、と。

 私は咳をするふりをして口元を手で覆い、答える。


『急性期を過ぎた患者さんや回復期の患者さんが、リハビリ目的で通院したり、入院して過ごす施設だよ。このあたりじゃ一番大きな病院でね』

 移送事業でも何度か行ったことがある。「県の中核的な施設でね……」と続けようとして言葉を止めた。


 総君の顔が強張っていたからだ。

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