第92話 寝室(6)

「ごめん……」

 扉の向こうでそう君が低い声で謝る。


「違う。私が悪いのよ」

 あははは、と泣きながら私は言う。


 馬鹿だなぁ、と。

 知ってたじゃない、と。


 自分は『主人公』をはれるような人間じゃないのだ、と。


 馬鹿だなぁ、と。私は苦笑し、もう一人の私が慰めるのだ。


 それなのに。

 なんで、恋したのよ。

 馬鹿ねぇ、と。


「コトちゃんがそんなこと考えてた、とか、傷ついてたとか全然思わなくて。その、僕」

 違うんだ、と総君が言う。


「なにが」

 声を出したけれど、随分勢いがない。

 まるで次から次に溢れる涙が、力を奪っているようだ。


「違うんだ、コトちゃん。僕、自分が情けなくて」

 苦しそうに総君は言った。


「なにが」

 力なく尋ねる。見上げた先で、橙色の小さな灯がぼやけて膨らみ、落ちる寸前の線香花火のように見えた。


「あの時、キスしようとして。僕に向かって目を閉じて、無防備なコトちゃんの顔見たら……。可愛い顔を見たら……」


 総君の声は、だんだん低くなる。

 だけど、小さくはならなかった。


「何やってんだ、って……。僕、何やらせてんだ、この子に、って、我に返って」

 総君の声はうめき声に似ていて、思わず私は首を扉の方に捩じった。


「コトちゃん、僕が困っていると思って、駅前で声かけてくれたのに」


 総君はごくり、と何かを飲み込んだ。

 空気の塊のようでもあり、苦い感情のようにも聞こえた。


「僕が頼んだから、恋人の振りしてくれてるのに。一緒にカフェ行ったり、デートしたり、手をつないだり……。全部、コトちゃんの善意に頼って、僕は何にも努力もしてなくて……。ただ、ずっと、コトちゃんが側に居てくれるから。にこにこ笑ってくれてるから、僕、勘違いして……」


 なにやってんだ、って。

 総君は苦しげに呟いた。


「僕はコトちゃんに甘えてばっかりで。それなのに、コトちゃん、全然文句も言わずに、僕の言うとおりにしてくれて……。僕、自分が本当に情けなくて」


 総君は扉の向こうで、重い息を吐いた。


「コトちゃんに惚れてもらえるようなこと、なんにもしてないのに。だけど、僕はコトちゃんのことが本当に好きで。だんだん好きになって。だから、あんな……。コトちゃんの善意にだけ頼るような……。コトちゃんが『いや』って言えないの分かってて、キスするとか。あんな、卑怯な事したくなくて」


 総君はそこで黙った。私も無言で寝転がったまま扉を見つめる。

 総君の言いたいことや伝えたい感情が胸をゆっくりと満たしていく。


 遠くで。

 じぃぃ、と冷蔵庫の稼働音が聞こえるだけで、室内は薄く、ぼやけたような沈黙に支配されていた。

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