第89話 寝室(3)

 そう君の言葉が、勢いよく胸を押し、私はまた空気を吐き出す代わりに、笑い出した。


「気にしないで、大丈夫だから」

 そう言うと、焦ったような声がリビングから聞こえる。


「違う。コトちゃん、あれ……」


「総君、きっとわかったんでしょ。『あ、私じゃないな』、って」


 胸の中がごろごろ唸る。

 不穏な気持ちが、気炎を上げて燻る。

 私は口から、その煙の欠片を言葉にして吐き出した。


「総君、きっと違う人に声掛けなきゃいけなかったのよ、あの駅前で。ごめんね。私が先に声掛けちゃったから、間違えちゃったね」

 喉の奥で、くつくつと笑いの余韻を漂わせた。


「総君。今からあの駅前に行って立ってみたら? きっと本当の総君の運命の相手に会えるんじゃない?」

 そう言った。扉の向こうからは返事も、身じろぎする音もしない。


「私ね、いっつもそうみたい。ほら、小説とかドラマでさ。主人公の男が言うじゃない。ヒロインに。『君に出会って、初めて本当の愛を知った』とか」

 扉に凭れたまま、あはは、と笑った。


「私はね。その主人公の男が、ヒロインに出会うまでの、つなぎの脇役なの。主人公の男の『元カノ』とかの役なの」

 気づけば噴き出して、執拗に笑っていた。


「ヒロインにさ、『君に出会って、初めて本当の愛を知った』って言うんだったら、それ以前に付き合った女に抱いた感情はなんだったのよ、って……。そう、思わない?」

 一度笑い出すと、しばらく止まらない。目の端に涙が浮かべて、お腹を抱えて笑った。


「ヒロイン以外の女は、そんな気になれないのよ。不満しか覚えないの。ヒロインを引き立てる為だけにいるの」


「コトちゃん……」

 静かな総君の声に、私は息を切らして、「あのね」と言った。笑いすぎてしんどい。


「初めてカレシができたのは、私が十九の時でね、大学二年生の時。同じ大学のゼミの子だったの。きし君って子でね。なんだったかなぁ……。名前、思い出せないや……。当時流行ったアイドルの誰かに似てた」

 私は「ねぇ、聞いて」と陽気な声を扉に投げつける。扉の向こうからは、「うん」と落ち着いた総君の声が聞こえてきた。


「私と岸君と真菜まなは同じゼミで仲良くてね。真菜は有近ありちか君とつきあってたの。一年生の時から」

「うん」


「岸君が私に『付き合わない?』って言うから、いいよ、って答えてね。そのことを真菜にも言ったら、すごく喜んでくれて……。付き合いだしてからも、3人でよく遊びに行った」


 私は天井の豆電球を見ていた。

 ぐるぐるとまわっていて、見ていると気持ち悪い。


 目が回りそうで、私はぎゅっと目を閉じる。

 自分の口から吐く声は陽気なのに、心がどんどん沈んでいく。


 沈んでいくのに、どうしてこんなに楽しげな声が出るんだろう。

 何処か冷めた気持ちでそう考えていた。


「私と岸君と真菜と有近君の四人で、一泊旅行に行ったの。京都。私と真菜、岸君と有近君で部屋を取るのかと思ったら、違うんだって。私と岸君、真菜と有近君で泊まるんだって。それ聞いた時、私、初めて男の人と一緒に泊まることになるから、もう、緊張して」

 あははは、と笑って目を開く。


 やっぱり、視界はぐるぐる回って、私は床に手を突いた。

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