第72話 リビング(5)

 尋ねられて、戸惑った。


 それは、問題ない、のか。

 自分自身に改めて尋ねてみる。


 いや、なんというか。

 そもそも彼は私に『触れない』のだ。初デートの時だってそうだったじゃないか。手がつなげなかった。


 だから。

 ここで、そう君が口にする『このままキスしても……。問題ない?』という言葉は、あくまで『恋愛ごっこ』の延長上でしかないのだろう。


 ふれることはない。

 ガラス越しにキスのまねごとをするようなものだ、と思った。


 だったら……。

 だったら、相手が「わたし」でも、問題ないのではないだろうか。


 私でも、大丈夫なんじゃないだろうか。

 だって、『恋愛ごっこ』なのだから。


 本当の、恋愛の相手じゃないのだから。


「いいよ」

 顎を引いて頷いて見せると、総君の瞳を見る。光彩は照明を帯びて不思議な色合いを放ち、そしてそこには私の顔が映っていた。


 総君の喉仏が、息を飲んだように上下する。

 緊張したように張った顎の辺りを見ていたら、するりと冷気が上から降りてきた。冷凍庫を空けたまま、冷蔵室を覗き込んだ時のように、凍えそうな冷気が靄になって私を包むようだ。


 総君が、強張った表情のまま、顔を寄せる。

 それから、鼻と鼻がくっつくほど近づいてから。


 彼は動きを止めた。


「コトちゃん」

 上ずった声で総君が私の名前を呼ぶ。

 わずかにひやりとした彼の呼気を感じた。


「目、閉じてくれる?」

 そう言われて、慌てて目を閉じ、それから笑い出しそうになる口を必死に引き絞る。


 総君の真剣さに、なんだかどぎまぎして、そしてそれが何故だか私の頭の中で笑いに変換されようとしていた。


 総君の真剣な態度とか、わざわざキスをしてもいいかと了承を取る紳士さとか。


 そんな風に、この私が扱われて。

 まるで、本当の恋人のような扱いを受けて。


 そのことが。

 その気持ちに向き合うことが。


 なんだかものすごく辛くて。


 だって。

 総君、一生懸命だけど。


 だけど。

 私に、ふれられないんだよ、と。


 そう、告げられなかった。

 わかってる? 触れないよ、と。


 そして。

 触れないことを前提に、「いいよ」という自分に嫌気がさした。


 いや。

 これは嫌気ではない。

 卑怯だ、と思ったのだ。


 こんな自分でも、誰かに必要とされるんだ、と確認するためだけに、総君を利用したんだ、と思う自分に向き合いたくなくて。


 それで私は、笑い飛ばそうとしているんだ、と。

 そう考えて。


 なんだか際限なく落ち込みそうになって。

 つとめて考えを反らすことにする。


 目を閉じたまま。

 近づいてくる澄んだ空気を感じながら、ふと、あの手を繋いだ日のように、唇と唇が触れたら、やっぱり冷たい、と思うのだろうか。


 そんな風に考えた時だ。


 ごつん、と。


 妙な音が室内に響いた。


「……え?」

 すぐ近くで総君の訝る声が聞こえ、私は反射的に目を開く。存外近くに総君の顔が見えたけど、それは横顔だ。首を捩じり、私ではなく音のした方を見ている。

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