第65話 ボラセン(6)

 私は非常階段を上りきり、テラスに回りこんだ。一面ガラスの扉からは、ボランティアセンターの様子がよく見える。


 カウンターの上に立ち、雅仁まさひとさんが事務所内に向かって何か怒鳴りつけていた。


 カウンターの内側には、椅子に座ってのらりくらりと何か言っている局長の姿と、にらみ上げるようにして仁王立ちしている冴村さえむらさんの姿があった。


 普段は事務所の自席で『動かざること山の如し』に座っている局長だけど、騒ぎを聞きつけてやって来てくれたのかもしれない。


 そう思い至り、顔が青ざめる。


 こんな状態の雅仁さんと、冴村さんは局長が来るまで一対一で対峙していたのだ、と。


「雅仁さん」

 私はガラス扉をスライドさせて、土足のまま中に入った。


 かまうもんか。どうせ、毎朝掃除しているのは私だ。それよりも、土足でカウンターに上っているあの男をそこから引き摺り下ろしたかった。


「おい、お前っ!」

 私の声に反応し、カウンターに上ったまま、ぐるりと雅仁さんが向き直る。そして、蹈鞴を踏んだ。


「金を返せ!」

 雅仁さんが叫び、そして小さくげっぷをする。


 私は目をすがめて彼の様子を眺めた。

 ひょっとしてと思うが、酒を飲んでいるのではないか。


「菅原さん、事務所に戻ってなさい」

 冴村さんが私をにらみつけ、「それ以上近づくな」と命じるので、思わず立ち竦む。


「おい! 聞いてんのかよ! ばばぁの通帳を返せってんだよ!」


 雅仁さんの白目が赤く充血している。

 白目だけじゃない。顔全体が赤らみ、そして台詞の合間合間に「馬鹿」だの「あばずれ」だの罵詈雑言を挟むが、だんだん言葉の明瞭さが欠けていく。


「お酒、どれぐらい飲んだんです」

 のんびりと局長がカウンター上の雅仁さんを見上げて尋ねた。


「うるせぇ!」

 雅仁さんは盛大に叫んだ。薬ではないだろう、とは思う。

 だが確信がない。近づいて呼気を嗅げばわかるだろうが、生理的に嫌だ。「酒臭いなぁ」と局長が苦笑し、ああ、やっぱり酒か、と安堵した。


「ばばぁの通帳どこだ!」

 雅仁さんがまた叫ぶので、溜息ついてみせる。


「何度もお伝えしていますが、あれは正田えい子さんの通帳です。貴方のものではありません」

「ばばぁが、俺に使っていいって言ってんだよ! お前が決めんなっ!」


「私は正式に正田さんから依頼を受けて、管理をさせてもらっています」

「黙れっ! このクソ女!」

 言うなり、雅仁さんがカウンターから飛び降りた。


 一瞬、こちらに突進してくるのかと身構えたが、どうやら呂律より先に足腰が立たないらしい。局長が小さく「おおっ」と声を上げたのは、私に対する心配よりも、床に転倒して、したたかに顔の右半分を打った雅仁さにかけられたものだった。


「くっそ、お前ぇぇ!」

 雅仁さんはうつ伏せに倒れたまま、床を力任せに殴り、そして顔をしかめている。もう、呆れて声をかけるのも嫌だ。思わず溜息を付きかけた時だ。


 敏捷に、雅仁さんが上半身を起こした。

 クラウチングスタートに似た体勢を取り、私を睨み上げる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る