第58話 カフェ(8)

 前方を歩くのは、さっきの大学生カップルだ。方角的に駅に向かうのだろう。彼ら以外人影はなく、歩道のアスファルトは居並ぶ飲食店から漏れる店内の照明に、濡れたように光っていた。


「支払いの事言ってるの?」

 尋ねると、そう君はしばらく黙っていたけれど、小さく頭を上下させた。私は呆れる。


「だって、私が飲んだんだから、私が支払って当然でしょう」

「……だって」

 そう呟いて黙ってしまう。そんな彼の横顔を眺めて苦笑した。多分、彼の中にはいろいろ理想があったんだろう。支払いは男性、とか。お店でエスコートして、とか。


 私は、案外長い総君の伏せた睫を眺めながら、心の中で、うぅん、と呻る。


 別に奢ってもらいたいとは思わないし、幽霊の彼が私に奢れるとも思っていないので、実は彼が落ち込むポイントが全く分からない。分からないのだけど、そんなことをここでうだうだ言っても仕方ない。


 視線を前方に向けると、距離をおいて歩く大学生カップルが、いつの間にか手を繋いでいる。


「あ……」

 思わず口から声が漏れ、「なに?」と総君が不思議そうに私を見た。まだ、なんか落ち込んでいる気配がある総君に、右手を伸ばす。


「なに?」

 もう一度、不思議そうに尋ねられた。


「手、繋ごうよ。繋いで帰ろう。なんか、デートっぽくない?」

 私の提案に、「手!?」と総君が声を上げて背をそらせる。その顔が、やっぱりまた、見る間に赤くなってきた。


「そりゃ、実際には触れないけどさ。なんかこう、振りはできるでしょ。ほら」

 そんな総君を見て笑い、それから彼の降ろしている左手に自分の右手を近づける。


 私の指が総君の掌に触れ。

 総君は、触れられたかのように肩をびくりと跳ね上げた。


 私も。

 触った、と思ったものの。


 触感はなく、ただ氷にさわったような冷めたさだけが伝わってくる。


 やっぱり触れられないんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る