第46話 正田宅(6)

 言った途端、床がどん、と鳴った。


 空気が震えるほどの揺れに、そう君が「ひぃ」と悲鳴をあげ、正田しょうださんが怯えたような肩を震わせた。


「ざけんなよ、手前てめぇっ!」


 雅仁まさひとさんが立ち上がり、再度床を蹴りつける。

 大きな音の後、みしり、と妙な音が鳴った。そういえば、シロアリ駆除の業者を一度呼ばなくては、と頭の片隅で思いながら、私はたたきに両膝を突いたまま、彼を見上げる。


「誰の金だよっ、これ、ばばぁの金だろうがよっ! なんの権限があってお前がそんなこといえるんだ!」


 雅仁さんは腰を屈め、顔を近づけてくる。怒鳴り声は煩わしかったが、それよりも最悪なのは唾の飛沫が飛んだことと、煙草臭い口臭が顔にかかったことだ。


「コトちゃん、危ないからっ」

 背後ではらはらしたような総君の声が聞こえる。


「そうです。これは、正田えい子さんのお金です」


 数センチ間近にある雅仁さんの目を見据えてそう言いきる。

 たたきに付けていた両膝をゆっくりと離して立ち上がると、私との距離感を保ったまま、雅仁さんが徐々に腰を上げていった。


「私のお金でもありませんし、ましてや雅仁さん、貴方のお金でもありません」


 雅仁さんの焼け付くような視線からは絶対外さなかった。瞬きさえ意志の力でねじ伏せて、行わない。


「正田えい子さんの年金です。そして私は、正田さんから正式に依頼を受けて金銭管理を行っています」


 正田えい子さんの異変に気づいたのは、私だった。


 デイサービスの送迎で正田さんのお宅に伺うと、一人暮らしだと聞いていたのに、頻繁に若い男性が出入りしていることに気づいたのだ。


 その後、正田さんは、デイサービス利用料とは別途支払いが必要になるレク事業や、外出行事には極力参加しなくなってしまった。


『こんないいところに通わせてもらって、嬉しい』

 小さい頃から貧しくて、いつも働いていたらしい。結婚してからは夫の借金で生活が厳しく、働き詰めだったそうだ。


 だから、デイサービスに来て、食事や風呂を職員が準備し、「体調はどうか」、とか「リハビリ目的で外出しましょう」と連れ出してくれるのが、夢のようだ、と言っていた。


 週一回の利用だったけれど、送迎の車内でひっそりと私に『年取っても、悪いことばっかりじゃない。こんないい目に会えた』と言ってくれたのに。


 若い男が入り浸るようになってからは、口数も少なくなり、服装も栄養状態も悪くなり始めた。


 私が相談員に報告をし、事務局の方が聞き取りや民生委員と連携して調査を行ったところ、正田えい子さんの息子である雅仁さんが正田さんの年金を勝手に使い込んでいることが分かった。それどころか、雅仁さんから長らく身体的虐待を受けていたようで、正常な判断ができず、雅仁さんにはほぼ言いなり状態になっているらしい。


 すぐに役場の高年介護課と社会福祉課が動き、正田さん自身に社協の日常生活自立支援制度を申請させ、雅仁さんには生活保護受給申請を勧めた。


 これが、二年前だ。

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