第38話 仕事場(8)

「どうしたの?」

 そう君が私の視線に気付き、不思議そうに首を傾げた。私は首を横に振り、冴村さえむらさんに教えられたあの笑みを浮かべた。「なんでもない」。そう答え、ポットの湯を沸かす準備に視線を戻す。


 違和感などあって当然だ。


 なにしろ。

 彼は生きていないのだから。幽霊なのだから。


「なんでもない」

 そう答えて、私はルーティーンのような朝の準備に取り掛かった。


 給湯場の掃除と食器類の準備を済ませると、麦茶を沸かす。その間に、センター内の床に掃除機をかけ、事務机を含めたテーブル類を拭き清めた。だいたいそのころには麦茶が湧くので、火を止めて、耐熱ガラスの容器に麦茶を注いで冷ます。冷ましている間に、今度は長靴を履いて、ゴム手袋を嵌め、テラスに出た。建物上部に鳩が巣をかけているせいで、糞の掃除を毎日しないと、酷い有様になっている。農作業で使う鍬で糞を擦りとり、箒とちりとりで糞を集めて破棄。そこに、ホースで水を撒いて、デッキブラシで洗い流す。今日は、総君がホースの水まきを手伝ってくれたおかげで、なんだか楽した気分だ。


 それが終わると、道具を片付け、丁寧に手を洗って消毒。今度は、コーヒーメーカーの準備だ。

 冷蔵庫から挽いたコーヒー豆の袋を取り出していると、後ろからも冷気を感じて顔を上げる。やっぱり総君だ。


「いろんな仕事をするんだねぇ」

 感心したように、ボランティアセンターを見回しているから、私は笑って冷蔵庫の扉を閉めた。


「いいのよ、すごい雑用だね、って言ってもらって」

 目を丸くして見下ろす総君に、私は肩をすくめた。


「私自身、そう思ってるから」

 事務所と活動室を隔てるカウンターの端に設置されているコーヒーメーカーに近づき、そう言うと、「そんなことないよ」と総君が声をかけてきた。


「総君が見学に来たところで、大した仕事してないから、なんか恥ずかしんだけど」

「そうじゃないよ」


 焦ったように総君が答えた。


「雑用なんて思ってない。誰かがやらなきゃいけない仕事って、どうしたって細々したものになるじゃないか」

 上部のふたを開けてコーヒー豆を入れると、途端にコーヒーの芳香が立ち上った。その香りから目をそらすと、自然に総君が視界に入る。


「それを一人でテキパキこなしてるから……。感心しただけ」

 総君は真剣な面持ちでそんなことを言うから、なんだか面映ゆくなって私は再び俯く。


 総君が何か更に言いたげな気配は伝わってきたのだけど、彼も言葉が見つからないらしい。結局二人して黙っていたら、廊下の方から足音が近づいてきた。


 若干安堵してカウンターのデジタル時計を見る。


 午前八時。冴村さえむらさんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る