第26話 アパート(9)

 ゆっくりと顔を挙げ、目の前の日置ひおきを見る。


「だめかな、コトちゃん、は……」

 真っ赤になって私に告げ、ようやくそれが、自分の呼称なのだと気付いた。


 琴葉ことは、と。


 呼び捨てにされるのが嫌いだった。

 尊大で、横柄で、なんだか所有物扱いされているようで、実はだいっ嫌いだった。


 だいっ嫌いだったのに。


 そう言えなかったその感情が、心の奥で熾火のように私の過去を燻らせ、不快な煙だけをここ何年も立ち上らせていた。


「それがいい」

 気付けば微笑んで日置に……、いやそう君に伝える。


「じゃあ、コトちゃんで」


 総君はほっとしたようにそう言う。

 不思議なものだ。


 コトちゃん、という。


 たったその一言が、私の熾火を一瞬に消した。

 長らく燻っていた不満とかやるせなさとか、忘れようのない悔しさなんかをあっさりと霧散させる。


「ありがとう、総君」


 私が言うと、総君は不思議そうに、そして曖昧に笑う。その笑みを見ながら、ご飯を食べる前なのに、随分と満たされた気持ちになった。

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