第25話 アパート(8)

「ああ。ごめん。えっと。呼び方の話だっけ」

 強引に表情を作り、水を止めて日置ひおきに向き合う。彼は彼で、取り繕うように何度か首肯した。「そう。うん」。小さくそう言って私を見た。


「呼び捨て以外ならいいよ」

 シンクにもたれかかって日置に言う。「何がいい?」と。


「呼び捨て、って。えっと……。琴葉ことは、とか、総一郎そういちろう、とかのこと?」

 恐る恐る尋ねる彼に、うなずく。


「あれ、嫌なの」

「じゃあ、琴葉さん」


「言うと思った」

 おもわず吹き出す。「苗字が名前に変わっただけじゃない」。私が笑い声のままそう言うと、日置は照れたように顎をかいた。


「君はなんて呼ばれてたの? 友達とか、ご両親から」

 彼の笑顔を見ていたら、肩の力が抜けた。


 さっき微妙な雰囲気になったが、どうやら戻って来たらしい。気付かれないように息を吸って吐き、ザルの中のほうれん草に視線を落とした。絞って、切ろう。


「同僚や上司は日置、って呼んだけど。友達は「そーいちろー」かな。母は、そう、って」

 静かに日置は答え、私は包丁とカッティングボードを取る手を止めた。母は、と言った時の彼の声がやけに沈んだからだ。


 母子家庭、とさっき言っていたのを思い出した。


「……お母さんが呼んでおられる呼び方を、私がしたら嫌?」

 躊躇った末に尋ねると、日置はびっくりしたように首を横に振る。


「じゃあ、私は君を、そう君って呼ぶことにする」

 包丁とカッティングボードを手に取り、宣言した。「あの……っ」。ひっくり返った声で、日置が私に声をぶつけてくる。


「じゃあ、僕は菅原すがわらさんをなんて呼べばいいんですか……。じゃなくて、いいの?」


「菅原さんと琴葉ことはさん以外の呼び方」

 即答し、ほうれん草を軽く搾って、ざくざくと切り分けた。


 少し硬いかなともおもったけれど、くたくたより歯ごたえがある方が好きだ。

 冷蔵庫の隣に設置してあるキャビネットから鉢を取り出し、お弁当用のほうれん草は別の小鉢に取り分けて盛り付けながら、根をどうするかで迷う。


 黄身醤油和えが美味しい。大好きだと言っても過言ではない。だけど、だ。この量に対して黄身一個は多かろう。と、するならば、だ。余った卵液をどうすればいいのか。


 毎回コレで悩む。いつもはスープか味噌汁に入れて食べているが、何か別の料理に使えないものか。さらにもう一個足して卵焼きを作り、あすの朝、食べようか。


 そんなことを考えていたら。


「コトちゃん」

 不意に日置の声が聞こえ、私の思考は停止した。

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