第24話 アパート(7)

「お互いの呼び方もなんか考えようよ」

 ぷくぷくと気泡が上がる音がし、私はほうれん草の入ったザルを両手で持ち上げる。


「呼び方?」

 日置ひおきが不思議そうに首を傾げるのを横目に、鍋にほうれん草を入れる。濃い緑の葉は、すぐにくしゃりとしなるので、菜ばしで軽く揺すった。


「日置君、菅原すがわらさん、じゃなくってさ」

 ほうれん草の様子を見ながら、日置を見て笑った。


「菅原さん、って家でも呼ばれたら冴村さえむらさんが居るのかと思うもん」

「冴村さん?」

 日置が名前を鸚鵡返しにするから、「直属の上司。とっても尊敬しているの」と答えて、ガス火を消した。


「すんごい、カッコいいのよ。この近隣じゃ知らない人はいないぐらい。以前ね、冴村さん熊本に派遣されたんだけど、冴村さん、派遣グループでも名前が知られてて、怖れられててねぇ」


 私は思わず笑い出してしまった。『それ、噂だから。忘れて、って言ったら更に怯えられた』と電話口で冴村さんがぼやいていたのを思い出したからだ。


 ちなみに、熊本派遣では、『ジョーカー冴村』と呼ばれて怖れられたらしい。実生活で、『ジョーカー』などと呼ばれる人を、私は初めて目にしたが、後から派遣組メンバーより「切り札」、「何にでも使える」的な意味合いだと教えられて、ますます尊敬した。


 私は鍋を手に持ってシンクに運び、ザルにこぼす。一気に蒸気が立ち上り、私の頬をなでて消えて行った。ざるの中には綺麗な緑色と、根の紅色が可愛らしいほうれん草が残る。蛇口から水を出し、さっと晒しながら、私は続けた。


「冴村さん、言いたいことはちゃんと言うし、行動力あるしね。下には優しいし、上には噛み付いてくれるし……。そうそう。熊本ではね」


 顔を起こして正面の日置を見ると。


 なんともいえない表情で私を見ていた。


 一言で表現するならば、雨の中捨てられた仔犬だ。今にも「くぅん」と言いそうな顔で私を見ているから、口を閉じる。


 彼には分からない人間の話をしたから、置いてけぼりをくった気分にでもなったのだろうか。

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