第22話 アパート(5)

 いつもは部屋着に着替えてウロウロするのだけれど、今日は流石に憚られた。

 カウンター式のキッチンに入り、冷蔵庫の扉を開く。


 二日前にまとめて作った肉じゃがのタッパーがあったので、それを取り出した。後は野菜室から二束だけ残ったほうれん草を取り出して湯がいて……。それから冷凍のご飯をチンすればいいか。そう思っていたら背後から日置ひおきの声が聞こえた。


「いえ、僕は」

 そう言うので、「遠慮しないでよ」と笑う。


「って、言ってもたいした物は……」

 ないんだけど。そう言おうとして、意外に真っ直ぐに私を見ていた視線にぶつかって言葉を噤む。


「……なに?」

 いぶかしんで尋ねると、日置はようやく自分の不躾な視線に気付いたようだ。「すいません」と、スツールから飛び上がらんばかりに慄き、それから顔を背けた。


「あの。化粧を取ったら、随分お若く見えて……」

 背中を丸めるようにしてそう言う。テレビから聞こえた出演者の笑い声が語尾にかぶさり、濁る。彼は咳払いをした。


「すいません。女性は随分化粧で変わるんだな、と思って」

 目元のあたりを赤くしてそんなことを言う。


『化粧ぐらいしろよ、みっともねぇな』


 不意に、もう、何年も思い出さなかった翔真しょうまの声がざらりと鼓膜を撫でた。日置に触れたときとは別の寒さが背筋を上り、ぐっと奥歯を噛み締める。


「……素顔は変なのよ」


 冴村さえむらさんに教えてもらったように上手くは笑えず、私は背を向けて冷蔵庫に向き合った。しゃがみこみ、一番下の野菜室からほうれん草を取り出すふりをして日置から顔を背ける。


「いえ、そうじゃなくって」


 慌てたような日置の声がダイニングから聞こえてきて、私は若干安堵した。日置の性格からすれば、「そうですね」と言わないことは想像できたが、本心は別にして否定してくれたことに詰めていた息を吐く。


 そうだ。すっかり忘れていた。

 ここ数年、男となんて接してなかったから。

 冴村さんとしか話してなかったら。


 自分の容姿のこととか、性格のこととか。

 そんなこと、気にも留めていなかった。


 忘れるな。

 私は。


「あどけないな、と思って。可愛いな、って思って」


 私は。

 忘れるな。



 ――――― 私は。

 驚いて、顔を上げた。


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