第21話 アパート(4)

「あ。テレビとかつけてね」

 そう言って、洗面所に向かおうとし、「リモコン、触れる?」と振り返った。日置ひおきはきょとんとした顔をしたあと、「どうでしょう」とローテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。


「……おお」

 そして思わず、彼と同時に声を上げてしまった。


 触れたのだ。


 日置は嬉しそうに電源と書かれた赤いボタンを押し、テレビを起動させた。


 途端に室内に、けたたましい笑い声が響く。画面を一瞥すると漫才師が司会をするバラエティ番組のようだ。長い差し棒のようなものでひな壇の芸人を指し、なにか笑いを取っていた。


 日置は膝をそろえた姿勢でスツールに腰掛け、テレビを観ている。興味があるのかどうかは知らないが、それでも手持ち無沙汰よりはいいようだ。


 私は再びリビングを出て、洗面所に向かった。扉を開け、小物棚からヘアバンドを取り出して前髪を上げ、鏡を見る。


 見慣れた顔が、そこにあった。

 ただ。

 ここ数ヶ月、浮かべていた表情ではなかった。

 疲れたような目と、不機嫌そうな口元。


 そんな容貌ではなく。

 飛沫跡が端に残る鏡に映るのは。

 若干笑みの余韻を残した唇と、ゆるやかに細められた目だった。


 思わず。

 苦笑した。

 多分、家にひとりじゃない、と言う状況がこの私の顔の理由なのだろうけど。


 一人じゃないと言っても、もう一人は幽霊だ。

 可笑しくなってくつくつと笑い、クレンジングに手を伸ばした。手早く化粧を落とす。

 ざぁざぁと水音を立ててクレンジングごと化粧を洗い流すと、新しいハンドタオルに手を伸ばして水気をふき取った。クレンジングの華やかな香料に胸に満たしながら、リビングに戻る。化粧を取ったら空腹を感じた。そういえば、彼は何か食べたり飲んだりするのだろうか。


「ねぇ」

 リビングの扉を開き、呼びかけると、「はい」と返事された。観るとはなしに観ていたテレビから視線を私に向け、日置は瞬きを数度繰り返した。


 なんだろう、と不思議におもったものの、首を傾げて尋ねてみる。


「何か食べる?」

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