兎 其の二
目が覚めるとサナはいなかった。荷物は置いたままだった。出かけたようだ。
昨夜は、サナに乞われるがまま同じベッドで眠った。ダメだとは言いづらかった。
サナは、ずっと震えていたから。
彼女の姿を探し家の外に出ると、人影がこちらに近づいてきた。
赤い血をポタポタと垂らしながら。
手には白い毛皮に覆われた獣をぶら下げている。兎だ。
サナは家には入らず、川辺の岩場に向かう。フロウもそれについていった。
「フロウは前に兎を見ていた。好き?」
「ああ」
獲物を掲げながら、サナが呟く。足がビクビクと動いていた。まだ、生きている。
「わたしも好き。ふわふわで可愛い。それから——」
サナは逆さまになった兎の顔を見ながら薄く微笑む。
「おいしい」
そう言って兎を岩場に下ろすと、脳天をナイフの柄で思い切り殴った。
サナは慣れた手つきで痙攣する兎から皮を剥ぎ、内蔵を取り出して、肉を部位ごとに捌いた。
ふわふわの兎は瞬く間に綺麗なピンク色の肉と化した。サナはさらにナイフの柄を使って骨を砕く。その方がよいスープが出るのだと言って。
「フロウ、鍋を貸して」
納屋から大きめの鍋を出してやると、サナは汲んできた川の水を湧かし、骨つきの肉と豆の缶詰を放り込んだ。塩と香辛料を加えて煮込む。
残りの肉は軒下につるした。
「同じ」
兎と豆のスープをかき混ぜながら、サナは唐突に言う。
「フロウは人間を食べる。わたしは他の動物を食べる」
「ああ、そうだな」
本当に、そうだ。
割り切れないのは、自分が人間と同じ姿をしているからか。人間が言葉を話すからか。
フロウはサナが食事をする様を、黙って見つめた。
スプーンで汁を啜り、骨に残った肉に齧りつく。肉の脂で唇はしっとりと濡れ、光っていた。ときおり、赤い舌が覗く。目は恍惚として、一心に器の中身を身体に流し込む。
食べ終わる頃には頬に赤みが差していた。身体が温まったようだ。
お茶を煎れて手渡してやると、嬉しそうに唇を緩める。
「フロウはおなかが空かないの?」
「ああ。しばらくは大丈夫だ」
人のように頻繁に食事をする必要はない。冬の間は家でじっとして、人間が持っていた書物を読んだりして過ごす。たまには自分で買うこともあった。
「納屋に小振りの弓があった。古いから使えるかどうかわからないが」
「本当?」
「弓、扱えるのか」
「得意ではないけど、軽量な武器なら一通り。銃はないの?」
「弾がない。それに錆びている」
「後で納屋を見てもいい? できれば毛皮を鞣したいのだけど」
「使える物があれば好きにしていい」
納屋にあるのは、殺した人間の持ち物と、最初からこの家にあった物だ。
本当にここで暮らす気なのだろうか、サナは。
考えると、鼓動が速くなった。
一人で生きなければいけないと思っていた。両親と別れ、ディアと別れ、もう二度と誰かと日々を共にすることなどないと思っていた。
伴侶を持つ気はなかった。子を成すことが怖かった。
それを考えるたびに、血まみれでフロウの名を呼んだ父と、一緒に食べようと誘った母の顔が思い浮かぶ。
温かい思い出もあった。楽しかったことも、たくさんあったは。父も母も、いつも優しかったはずなのに。
全部、血が塗り替えてしまう。
「フロウ?」
不意に頬に触れられ、思わず身を引く。その反応に、サナも慌てて手を引っ込めた。
俯く横顔は少し悲しそうに見えた。
その頬に、今度はフロウが手を伸ばす。
柔らかくて温かい頬に触れる。サナは不思議そうな顔でフロウを見返した。
苦しい。胸が苦しい。
彼女がそばにいることを幸せだと確かに感じているはずなのに、どうして、これほど苦しいのだろう。
サナは毎日のように納屋をひっくり返しては、使える物がないかと探している。それから、山で丈夫な蔓や枝を見つけては何か拵えていた。
フロウも縄を編むのを手伝った。ディアにも教えてもらったことがあるが、サナのほうが手厳しかった。少しでも雑だと手の甲を叩かれた。
相変わらず口数は少ないけれど、サナはずいぶんと表情豊かになった。
ある日、サナは軒下にぶら下げた兎や鳥の肉を目当てに現れた狐を仕留めた。黄金色の毛が美しい、若い狐だった。
「それも食うのか」
「食べるけどあまり好きじゃない。香辛料がたくさんないと美味しくならない。普通の人間は敬遠するみたい。虫がたくさんいるって」
「サナは大丈夫なのか」
「平気」
短く言って、サナは解体を始めた。兎よりは手こずるようだ。
剥いで洗った毛皮を板に磔にして、満足げに頷く。
「綺麗。高く売れる」
「売りに行くのか」
問うと、降り積もった雪を眺めてうんざりしたように肩を竦める。
「俺が行ってくる」
「嫌」
慌てたようにサナがフロウの腕を掴む。
「……嫌」
小さく首を横に振る。責めるような目でフロウを見上げて言葉を継ぐ。
「待つのは嫌い」
フロウが町に降りたとき、サナはこの山で一人待っていた。
帰ってくるかどうかもわからないのに。
「じゃあ、春になったら一緒に行こう」
「春では高く売れない」
「そうか。それなら、秋になったら行こう」
気の長い話だ。それまで、一緒にいられるかどうかわからないのに。
それでも、希望を込めて言葉にした。
そっと手を伸ばすと、サナはおずおずと手を握ってきた。
小さな、冷たい手だ。だけど逞しい。一人で生きることができる。
それなのに、ひどく心許なげに思えて、フロウはサナの身体を引き寄せた。
出会ったときには、嫌なにおいがすると思った。普通の人間とは違うにおいだった。
だけど今は狂おしいほど甘美に思える。
衝動に抗えなかった。
「いけない、フロウ」
唇を寄せると、顔を背けられ、軽く胸を押された。
「ごめん」
サナは困惑したように目を逸らす。自分の腕を引き寄せるようにして、拒絶を表した。
「フロウ、わたしの身体は」
「わかっている」
彼女と暮らしても、結ばれることはない。
それでも、共に生きられるのなら。
「……サナ?」
唇を嚙み、震えている。
「わたしは、フロウを殺したくない」
殺したくない。もう一度自分に言い聞かせるように呟く。
ああ、そうか。苦しいのか。
食人鬼を殺す。そのために生きてきた。
その呪縛は彼女自身が思うよりも強固なようだ。
「………っ!」
突然、サナが姿勢を低くし、辺りを警戒する。
「どうした」
「あの男だ」
強張った声。先ほどまでは穏やかだった目に、鋭い光を宿す。
わずかに、唇は笑みを浮かべていた。
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