殺戮者の決意

 重い足を引きずるようにして、フロウは歩いていた。

 降ったばかりの雪がサクサクと軽い音を立てる。月は雲に隠れ、辺りは漆黒の闇に包まれていた。

 フロウが棲み処にしている山へ帰り着いたのは、真夜中を過ぎていた。

 もう三日も留守にしていた。

 本当はすぐに帰るつもりだったのに。

 まっすぐに家に辿り着くことができない。まるで場所を忘れてしまったかのように、フロウは意味もなく歩き続けた。

 よく洗ったつもりなのに、まだ血のにおいがする。

 フロウは自分の手を見る。血はついていない。そのはずなのに生々しいにおいとぬめりが肌に貼りついている気がした。

 鞄に挿してあった花が無残に散った光景を思い出す。

『よい聖誕節を』

 そう言って少女が渡してくれた花。

 フロウはその少女の後をつけた。路地裏の陽当たりの悪い小さな家だった。

 昔を思い出した。フロウが子どもの頃に住んでいたのも、こんな小さな家だった。

 ノックをして出てきたのは母親で、少しほっとした。

 あの少女だったら、躊躇っていただろうから。

 だけど結局、少女は二階から降りてきて、惨状を目にした。

 母親が食われているところを見た。

 可哀想なことをした。

 女の子も一緒に殺せばよかった。

 だけどフロウにはできなかった。殺すことはできずに、悲鳴を上げそうになった彼女の意識を奪って、置いてきた。

 目を覚ましたときのことを想像すると気が重い。

 生きるため。生きていくため。

 生きて——いく価値があるのだろうか。

 誰かの命を、幸福を奪い続けてまで。

 フロウは足を止めた。僅かな息遣いを気取ったからだ。

 途端、ドンッと背中に何かが飛びついてきた。

 木の上から飛び降りたのだろう。衝撃にフロウはふらつく。

 背後から細い腕が回り、フロウの首を絞める。

 覚えのある感触。それから、におい。

 サナだ。

「ぐ――……っ」

「フロウ、どこまで行っていたの」

 耳元で訊ねられる。首を絞められていては答えられない。

「遅かった」

 抑揚のない声。だけど微かに恨みがましい響きが混じる。

「もう帰ってこないのかと思った」

 ああ、その選択肢もあったなと、今さらながら思う。

 同時に、待っていてくれたことに安堵した。

「サナ……」

 彼女の腕を掴みながら、擦れた声で名を呼ぶ。

 力は緩まない。

 このまま殺されるのか。サナに。

 それでもかまわない。そんなに殺したいのなら。

 彼女がそれを望むのなら。

 それでいくらかでも、サナの心が救われるのなら。

 フロウは掴んでいたサナの腕から手を放し、力を抜いた。

 そのせいでバランスを崩し、雪の上に倒れ込む。冷たい。だけど柔らかい。

 フロウが抵抗しなくなったことに気づくとサナは首を絞めるのをやめ、スカートをまくり上げダガーナイフを抜く。

 別れの言葉を何か言おうと思ったけれど、何も思い浮かばなかった。

 元気で。

 幸せになって。

 そんな言葉が彼女に届くとは思えなかったから。

 フロウが覚悟を決めて目を閉じたそのとき。

 ぐぅ、と緊迫感を欠いた音が響く。

「……サナ?」

 サナは冷静な表情のままナイフを構えてフロウを見つめていた。そのナイフは振り下ろされる気配はない。不機嫌そうに唇が歪む。

「その鞄の中身……やるよ」

 飛びかかられたときに放り出してしまった鞄だ。

「何?」

「食糧と金。たいしてないけど」

 本当は花も一輪あった。あの女の子の母親を襲ったとき、花びらは散ってしまった。

「盗んだの?」

「買ったんだよ。サナが生きるために、少しは役に立つかと思って」

「わたしが生きるため?」

 不思議そうに呟き、サナは首を傾げる。幼い表情だ。

「ああ、そうだ」

 彼女に生きていて欲しい。何故そう思うのかわからない。

 サナはナイフを下ろし、スカートをたくし上げ革製のカバーにしまう。

 鞄の中を物色し、サナは豆の缶詰を見つけてほんの少し唇を綻ばせる。好物だったのだろうか。

 一通り品物を検分したあと、サナは鞄を手に立ち上がった。身体中についた雪を不快そうに払う。

「帰る」

 むっつりとした顔で言う。

「フロウの家に帰る」

 そう言って、サナはフロウを置いて行ってしまった。

 フロウの家のある方向へ。

 しばらく呆然とその背中を見送っていたフロウだったが、急に笑いがこみ上げてきた。

 たった今、殺されそうになったのに。

 一頻り、フロウは笑った。胸に温かいものが満ちる。

 彼女はなんと言った? 

 帰ると言ったのだ。

 フロウの家に。



 サナは暖炉のそばで身体を小さくして座っていた。

 フロウが戻ったことに気づくと、お茶を煎れろと催促してきた。

 言われるがまま、フロウは薬草茶を用意する。買ってきた物はお気に召さないらしい。

 固いパンを囓りながらお茶を飲むと、人心地ついたように長い息をはく。それから、カップを突き出してお変わりを催促した。

 二杯目のお茶が満たされたカップを両手で持ち、鼻先を温めながらサナが問う。

「雪、もっと降る?」

「ああ」

「嫌い。寒いのは嫌い」

 膝を抱き拗ねたように言う。暖炉ではときおり、小さく火が爆ぜる音がする。フロウには充分暖かく感じた。

「今も寒い?」

「少し」

「待って、何かかける物を探してくる」

 立ち上がったフロウの手を、サナが掴む。指先はとても冷えていた。

「温めて」

 小さく身を縮めたまま呟く。意味がわからずにフロウが首を傾げると、サナはさらに言葉を継ぐ。

「フロウが、温めて」

 淡い色の瞳は炎を映している。不思議な輝きに目をそらせないでいた。

 しばらく迷ったあと、フロウはサナの手を握り返す。そして一緒に毛布をかぶり、彼女を背中から抱いた。

 こうして腕の中に収まると、サナは小さい。小柄だったディアよりずっと小さくて細い。

 ぎこちなく髪を撫でると、サナはそっとフロウにもたれてきた。安堵したように力を抜く様子に、胸が苦しくなる。

「お父さんは」

 澱を吐き出すように、サナはぽつりと呟く。

「お父さんと呼んでいた人は、本当の医師ではなかったけれど、困っている人に薬を分けてあげたり、薬草を摘んで使い方を教えてあげたりしていたの」

 そのために知識を蓄えていたのだとサナは話す。

「こんなことは贖罪にはならない、よくそう言っていた」

「だけど、そうせずにはいられなかった」

「うん」

 多分、そう。

 サナは頷きながら言う。

 最初にサナから話を聞いたときには、酷いことをする奴だと思った。殺した母親の腹からサナを取り出し、育てた。

 食人鬼を狩るための道具として。

 彼は、人間を食わねばならないことを悲しみ、呪ってきたのだろう。

 その悲しみと呪いをサナに背負わせたことは確かに罪だ。

 だけど、それを断罪する資格などない。フロウの手も血にまみれている。

「わたし、決めた」

 サナがフロウの手を掴む。

「フロウを殺さない」

 小さいけれど、決意の籠もった声だった。

「いなくなったら嫌」

 白い手は、少し震えていた。

 サナは、食人鬼を殺すために生まれた。それしか生き方を知らない。教わらなかった。知ろうともしなかった。知る機会さえなかったのだ。

「怖い」

 吐露した声はあまりに幼げだった。

「フロウ、わたし……怖い」

 サナを抱き竦め、フロウは彼女の髪に鼻先を埋める。

 大丈夫だと声をかけてやることは、できなかった。

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