子どもに必要なもの 巣立ち
単独行動している者を狙うこと。弱い個体を狙うこと。
狩り場の地形はよく覚えること。風下に立つこと。足音を立てないこと。気づかれずに距離を詰めること。
それから。なるべく、苦しめずに殺すこと。
フロウは木陰に身を潜めていた。
ディアと暮らす洞窟からは歩いて一時間ほど。狩人がよく現れる地点がある。鹿を狩りにきているのだ。彼らは単独で行動することも多い。だが、力は子どものフロウより強い。武器も持っている。
フロウには荷が重い相手かもしれない。
だが、女子どもを狙うならもっと人里に近づかなければならない。それもまた、危険なことだ。
ディアはすぐそばでフロウを見ている。手伝ってはくれない。
失敗したら助けてくれる……なんて思ってはいけない。
そんな甘えは許されない。
息を詰める狩人との距離を少しずつ詰めていく。まだ気づいていない。
フロウはナイフを握り締める。ディアがくれたナイフだ。常に携帯できるし、森の中で使うには小振りなほうが便利だ。ディアは一対の湾刀を愛用している。
がさりと音がした。フロウは思わず肩をビクリとさせたが、音は立てなかった。
鹿だ。立派な角の牡鹿が現れた。まるで森の主のような堂々とした姿に一瞬、見とれた。
いけない。今はそちらに気を取られては。
狩人が銃を構える。老練な狩人だったが、フロウの気配には気づいていない。
鼓動が速くなった。恐怖心をねじ伏せ、フロウは男の背に飛びかかる。
男は驚いて身を捩るが、振り落とされる前に耳の下辺りを切り裂いた。
血が吹き出るのと同時に、男は発砲した。
森に轟く銃声。硝煙と血のにおい。
鹿は驚いて、走り去る。木立に隠れていた鳥が一斉に飛び立った。
足元には目を見開いた男の死体があった。
これで何人目だろうか。ディアに見守られながら狩りをしたのは。
ナイフを握り締めたまま硬直しているフロウの肩を、ディアがポンと叩く。
そうだ。早く食べなければ。この血が温かいうちに。
「別に人間が嫌いなわけじゃない」
食事のあと、洞窟の中に戻るとディアが言った。フロウは彼が煎れた不味いお茶を啜る。
「どちらかというと好きだな、俺は。大勢集まって村や町で暮らして、家族を作って同じ家に住んで、様々な文化を持っている。面白い」
どこかで買ったのか、それとも死体から奪ったのか、ディアは民芸品らしきものを手で弄んでいる。木を組んで作ったからくり箱だ。
部品をずらしたり押したりすると、徐々に形が変わっていく。
「それに、色々な物が食える。羨ましい」
「でも殺すんだね」
自戒と皮肉を込めて言う。すると、ディアは笑った。
「醜い、気持ち悪い、嫌いだと思うものを食いたいとは思わない。自分の血肉になるんだからな」
ことり、とディアは箱を置いた。あられもない姿に開かれた箱の最後の小さな抽斗には、木の実が二つ、入っていた。
ディアはいろいろなことを教えてくれた。
狩りの仕方はもちろん、自然の中で暮らす心得、人間の町に行ったときの作法。
退屈とのつき合い方。
生きていくのに必要なことは全部、教えてくれた。
彼の元で一年が過ぎた。フロウの背は伸び、ディアとを少し追いこした。狩りはもう一人でできる。
別れの時が近いことは薄々わかっていた。ディアは最近、フロウを避けている。
その理由もわかる。
フロウが大人に近づいているからだ。
食人鬼は単独で生きる。その掟は揺るがない。自分を守るため、相手を守るための選択だ。
同族の肉は毒だ。決して口にしてはいけない。だから離れて暮らすのだ。僅かな同族を守るため。自分の身を守るために。
ディアから何度も言い聞かされた。
その度に、自分に食らいついた母の形相を思い出す。我を忘れて、牙を剥いた顔を。
フロウは本来ならとうに独り立ちしている年齢だ。
木立の中を歩きながら、自分から出て行くべきかと考えた。
嫌だな。一緒にいたい。
少し乱暴だけど、ディアは優しい。育ててもらった恩も返していない。
もう少しだけ……一緒にいられたら。
考えごとをしていたから、気配を察するのが遅れた。
ぞっとするような殺気に身震いし、フロウはナイフを構える。
目の前に悠然と現れたのは、美しい女だった。
「あのときの……」
エイダという女だ。どうしてここに。
「探したわよぉ。こんな遠くまできていたなんてね。どう? 森で獣のように暮らす気分は」
意地の悪い笑みを浮かべる。彼女にとって、フロウなど脅威ではないのだ。
食人鬼である以上、彼女も一人で生き抜く術を持っている。
「大きくなったわね。ディアにたくさんご飯をもらったの?」
「……今は、自分で狩れる」
「そぉ。ディアに教えてもらったのね」
ゆったりとした歩調で近づいてくる。フロウはジリジリと後退り距離を保った。
自然に、フロウの視線は女の腹へ向く。あのときは膨らんでいたけれど、今は平らだ。
フロウの視線に気づいて、女は腹をそっと撫でた。
「わたしの子どもは……流れたわ」
白い指先をぐっと握り締める。
ふいにエイダの表情が変わった。
怒りと恨みに満ちた目が鋭く光る。
「お前のせいよ。お前がいなければ、ディアが守ってくれた」
構えも何もなく、飛びかかってきた。未熟な少年相手に策など不要ということか。
早かった。逃げようとしたフロウの腕を掴み引き寄せる。そのまま、首を絞められた。
「ディアには教わったかしら? ここ、頸動脈ね。ここを絞めるとすぐ気を失うわ。そしてここは……とても苦しい」
言いながら女はフロウの気道を塞ぐ。
「苦しめばいいわ」
声は出なかった。フロウは足をジタバタさせ、手は女の腕を掴む。だが、振り解けなかった。
女の顔が歪むのは、苦しいせいなのか。それとも、彼女の恨みがその美しい顔を穢すのか。
わからない。
わからない。
彼女の不幸は自分のせいなのか。
自分が一体何をしたのか。
あのとき、死ねばよかったのか。父と母の骸の中、血と汚物にまみれて死ねばよかったのか。
一緒に父の肉を食べようと言った母を拒まなければよかったのか。
共に父の肉を貪り生き存えればよかったのか。
わからない。
楽になりたい。早く。
「ゲホッ……」
フロウは咳き込んで蹲る。何が起こったのかわからなかった。突然、地面に投げ出された。
絞められていた喉に触れる。痛い。そして熱い。
顔を上げると、エイダに馬乗りになる男の姿が見えた。
細い両腕はしっかりと戒められている。
「久しぶりだな、お前にこうして乗っかるのは」
「ディア……!」
エイダは身を捩るが、ディアは冷たい目で見下ろすだけだ。
「性格は悪いけど、身体はよかったよなぁ、お前」
「どきなさいよ!」
「最初は、楽しませてもらった分、子どもが生まれるまでは食うものの世話くらいしてやるかって思ってたよ。だけど……」
ディアの手に力が籠もるのがわかった。女は苦しげに眉を寄せる。その掴まれたところが変色しているのが見えた。
「もうじき子どもが生まれるのに、目の前の子どもを見捨てようとしたお前の顔を見て一気に冷めた」
「放……っ、や……、やめ……!」
女が引き攣った声を上げる。手があらぬ方に曲がった。絶叫が森に轟く。
力なく地面に腕が落ちる。今度は、ディアの手は女の白い首にかかった。
女が目を剥く。いやいやと首を横に振っている。
「確かに俺たちは単独で生きる。それは何のためだ?」
飢えに苦しんで仲間を食わないため。
飢えに苦しんだ仲間に自分の肉を食わせないため。
離れ離れになった。互いを守るために。
「エイダ……よがり顔は可愛かったよ」
「ディア……っ!」
フロウがやめてと口に出そうとしたときには、エイダはがくりと首を垂れていた。見開いた目がこちらを見ている。
「最後に教えてやるよ、フロウ」
動かなくなったエイダの上から立ち上がり、振り返ることもなくディアはフロウに近づく。
「同族を殺すときは、血を流させるな」
ディアは自分の手を見つめている。今、エイダを殺した手を。
「行け」
低く唸るように言う。睨みつけられ、身が竦む。
怖い。こんな怖い顔をするんだ。
いや、これが彼の素顔なのか。
自分のために、優しい顔を作ってくれていたのかもしれない。
再び、ディアが吼える。
「俺の棲み処を出て行け……!」
弾かれたようにフロウは走り出す。
どこをどう走ったかも、覚えていなかった。
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