子どもに必要なもの 庇護者
「何これ……」
女の声がした。あからさまな不快を表す声だ。
開けっぱなしの扉から、二人の大人が入ってきた。
町で声をかけてきた人たちだ。どうして、ここにきたんだろう。
フロウは呆然としたまま、二人に視線を向ける。
男は眉をひそめ、フロウを見下ろした。
「やっぱり、このガキはお仲間だったんだな」
「お食事中だったみたいだけど、どうしてこの女は死んでいるの」
「錯乱して息子に齧りついたんだろ」
「あーあ。もったいない。たくさん食べ残して」
女が肩を竦める。それから、血を避けるようにして棚の中や抽斗を物色し始めた。
「ろくな物ないわね」
「やめろ、エイダ」
「いいじゃない。どうせ死んでるんだから」
エイダと呼ばれた女は母の僅かな宝飾品を掴むと乱暴に鞄に詰め込む。
男はフロウのそばにしゃがみ込み、顔を覗き込んでくる。
「坊主、大丈夫か……って、大丈夫なわけねぇな」
「お父さん……お母さん……」
唇がカサカサして喋りづらい。声は自分の声じゃないみたいだった。
袖は真っ赤に染まっている。自分の血で。牙で引き裂かれた肉の鮮烈な赤に目眩がする。痛みはよくわからなかった。
心に薄い膜がかかっているみたいだ。事態を理解するのを拒んでいる。
「お前は母ちゃんに食われかけたんだ」
お母さんに……?
どうして。
声にならない疑問を察したのか、男は憐れみの目を向ける。
「知らなかったのか。お前の母親は食人鬼。人間を食うんだよ。お前もな。同族の肉は毒だから共食い厳禁。父親は……人間だな」
「お父さん……」
そうだ。お父さんが血を流していて、いいにおいがして、お母さんが、一緒に……一緒に……。
一緒に、食べよ——……って。
一気に目の前の霧が晴れたように、先ほどの光景が蘇る。
絶命しかけている父と、それを食べようと誘う母。
食欲を刺激するにおい。
「……うぇっ」
せり上がる悪寒に耐えきれず、フロウは呻いてその場に嘔吐した。
「あーあ……しょうがねぇな……」
男は呟いたあと、部屋を出て行った。不安になって、フロウは目で追う。立ち上がろうとしたけれど、血と吐瀉物でぬるぬるして、足を滑らせた。
ほどなく、男は戻ってきた。手には家で使っているバケツ、中にはなみなみと水が湛えられている。
「どいてろ、エイダ」
「ディア、何をするつもり。放っておきなさいよ」
エイダの言葉を無視し、ディアが近づいてくる。
「坊主、ちょっと冷たいけど我慢しろよ」
ディアは前置きした後、バケツの水をフロウの頭上にぶちまけた。
「……っ!」
「一回じゃ落ちねぇか」
水で薄まった血が床を流れていく。それは父と母が流した血に混じり、部屋の角で溜まった。
ディアは自分の鞄から布を取り出し、フロウの腕をきつく縛った。
「い、痛……」
きつく締め上げられ、フロウは弱々しく抵抗する。だが、ディアは手加減はしなかった。
「よし。バスルームに行けるか? お前の着替えはどこだ?」
「待って、その子を連れていくの? やめてよ、これからわたしの子が生まれるのに」
「俺の子じゃない」
「ひどい。何を言って……」
エイダと呼ばれた女は非難の声を上げる。ディアは表情を変えなかった。
「繁殖期の度に何人かの女と寝たけど、誰も孕まなかった。そういう身体なんだろう、俺は」
「嘘……」
「なんで俺にくっついてきたか知らねぇけど、その子の父親んとこ行けよ」
「わたしのために狩りをしてくれる気はないってこと?」
「ああ」
冷たく言い放つディアを睨みつけたあと、エイダは出て行った。
その背中を見送るディアは、少し苦しそうに唇を嚙んでいた。
ディアはフロウを連れて海を渡った。辿り着いた土地では海を離れ、町を離れて森を目指した。そこで洞窟を見つけ、棲み処に定めた。近くには川が流れている。
以前にも何者かが生活していたらしき痕跡があった。壁面はある程度滑らかに整えられて、木を組んでいくつかの部屋らしきものに区切ってあり、毛皮や毛織物がかけられていた。
煤けた後があるのは、そこで火を使った痕跡だろう。
「まぁ、男二人ならこれで充分だろ。な、フロウ」
明るい声で言い、ディアはフロウの頭をグリグリと力強く撫で回す。少し痛かったけど、温かい掌の感触にほっとした。
ディアは、しばらくここで暮らすと言った。フロウが一人で生きていけるようになるまで、親代わりになってやる、と。
「ここ……お風呂がないね」
「贅沢を言うな。身体を洗うなら川で充分だ」
「水だよ。お湯が出ないよ」
そう言うと、頭をペシッと軽く叩かれた。
「お前には野性味が足りない。そんなことでは繁殖期になっても伴侶を得ることができねぇぞ」
「……いらないよ」
「ガキにはわからないだろうけどな。自分の意思とは関係なく、衝動的に欲してしまうもんだよ。腹が減るのと同じ。俺も種なしのくせに無駄に女にちょっかいかけてきた」
ディアは肩を竦める。笑っているけれど、悲しそうな顔だった。
「あの女の人は……どうしたのかな」
「さぁ」
赤ちゃんは無事生まれたのかな。一人で、大丈夫なのかな。
その言葉は口にはしなかった。その代わり、問いかけでもなくぽろりと別の言葉が零れた。
「お母さんはどうして……お父さんと結婚したんだろ……」
フロウの母親がどうして人間の伴侶を選んだのかはわからない。
だけど確実にわかるのは、父親は、自分の妻が食人鬼であることを承知で一緒になった。ディアはそう話した。
フロウの家の納戸には、肉を捌くための道具が多くあった。バケツを探しにいったディアが見つけたらしい。
「お前の父ちゃんは多分、お前と母親のために、人間を殺して与えていた。港で荷下ろしの仕事をしていたって言ってたよな? そこで入ってきたよそ者に目星をつけて襲っていたんだろう」
「お父さんが……」
血の気が引く。父がそんなことを。自分たちのために。
言葉を失うフロウの肩を、ディアが乱暴に引き寄せる。
「愛されていたんだよ、お前も、母ちゃんも」
いつか飢えた妻が自分を襲うかもしれない。
それでも、共に生きようとした。家族のために人間を殺し与えるという業を背負ってでも。
トントンとディアが背中を叩いてくれる。幼い頃、母がしてくれていたような優しさはない。
だけど、温かい。
とても、温かかった。
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