子どもに必要なもの 教育者

「泣いてないで食え!」

「いやぁっ、やめ……ディア、やめて……」

 顔を肉に押しつけられる。赤い血がドクドクと溢れ出す、肉に。

 もがいても大人の力には叶わなかった。まだ十にも満たない少年の腕はひょろりと細い。

 フロウはディアに頭と肩を抑えられ、顔を死体の腹に埋めていた。

 岩場は赤黒く濡れていた。ディアの狩った人間の血で。周りではこの人間が釣った魚が苦しそうに口をパクパクさせている。この人間は渓流で釣った魚を食べようと思っていたのだろう。

 だけど今は、自分が食べられている。

「早く食え。血が冷えると食えなくなるだろ……!」

 ディアの指が肩に食い込む。さらに頭を押しつけられる。

 血が目に入って痛い。もがいてももがいても柔らかく温かい臓器が口の中を満たす。

「やだよぅ……食べたく、ないよ……」

「食わねえと死ぬだろ!」

「……いい、もういいよ……死んでも、いい……」

 フロウの胸には絶望しかなかった。

 ほんの少し前まで、人間の町に住んでいた。

 フロウは、自分が食人鬼だなんて知らなかったのだ。

 知らずに食っていた。与えられた、血の滴る新鮮な肉を。母が微笑んで差し出すから、喜んで食べた。

 あれが、人間の肉だなんて知らなかった。

 母は、もういない。

「食え! 頼むから……食ってくれよ……!」

 声が震えている。手も、震えている。

「お前のために、何人殺したと思ってんだよ……!」

 ディアの叫び声の悲痛さに気づいて、フロウは唇を嚙む。

 この人は自分を助けてくれた。生かそうとしてくれた。

「放して、ディア……。自分で、食べるから……」

 泣きじゃくりながらそういうと、やっとディアは手を放してくれた。

 掴まれていたところが痛い。

 味なんてわからなかった。涙が妙にしょっぱかった。だけど夢中で口に運んだ。ナイフで切り裂かれた肉を。まだ脈打つ臓物を。

 口に詰め込んでは無理矢理飲み下した。

 隣ではディアが腕をもぎ取って囓っている。フロウに柔らかい腹や臓物を譲ってくれたのだ。

 食べられるだけ食べると、フロウはふらふらと立ち上がり、川辺で顔と手を洗った。冷たくて肌がヒリヒリする。だんだん感覚がなくなってくる。それでも、洗った。

 ディアは食い残しを森の中に置いた。屍肉を食う動物の餌になるからと。

 食人鬼は屍肉を食えない。新鮮な肉しか受けつけない。

 不便な身体だと、たまにディアが呟く。

「腹は膨れたか」

「うん」

 頷くと、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回された。

「乱暴にして悪かった。たくさん食って、えらかったな」

 人間を食うのはあんなに嫌だったけれど、褒められると少し嬉しくなった。頭をぐしゃぐしゃにされるのも好きだった。

「フロウ」

 呼ばれて見上げる。

 ディアは綺麗な男だった。淡い色の髪と目、線の細い優しげな顔。背は少し低いのだと自分で言っていた。

「何、ディア?」

「次は自分で狩れ。教えてやる」

 一気に身体中の血が冷えた。

 自分で狩る。

 自分で殺すのか。人間を。

「自分でやるんだ。俺は、いつまでもお前のために狩ってはやれない」

 食人鬼は、単独で生きる。繁殖期以外は一人で行動する。子どもも狩りを覚えれば独り立ちをする。

「……わかった」

 フロウは答える。そう答えるしかなかった。



 ディアと初めて会ったのは、フロウがまだ両親と暮らしているときだった。

 大きな町だった。人がたくさん行き交う。貿易の拠点になるのだと聞いた。港には大きな船が停泊していた。

 フロウは母に使いを頼まれて町に出ていた。生活に必要な物が細々と書かれた紙を握り締め、町中を歩いた。

 母はこうして、ときおりフロウに買い物を頼む。ずいぶん遠くの店まで行くこともあった。

 たくさん歩いて疲れてしまうけど、母は助かるといっていつも喜んでくれる。だから使いに出るのは嫌いではなかった。

「君、安い宿を知らないか」

 すれ違った男が声をかけてきた。灰色がかった金髪に、明るい茶色の目をしていた。人懐っこい笑顔で、フロウを見つめている。綺麗な女の人も一緒だ。少しおなかが大きい。

 あまり町で人と話さないようにと母に言われていた。どうしようか迷っていると、男はしゃがんでフロウの顔を覗き込んでくる。

「遠くからきて、何も知らなくて困ってるんだ。知っていたら頼むよ」

「向こう……」

 フロウはおずおずと指差す。自分の家がある通りに、旅人がよく使う安宿があるのを知っている。あまり評判はよくないらしいが。

「ありがと、坊主。助かるよ」

 ポンポンと軽く頭を叩かれる。男は笑顔で手を振って、フロウが指差した方へ歩いて行った。

「あとは……」

 メモを確認し、残る目的地を確認する。お父さんにこっそり頼まれた煙草も買わないと。

 買い物を終えてようやく家に帰り着いたのは日暮れだった。

「ただいま」

 とても小さな家だった。慎ましく、家族三人暮らしていた。いつも窓辺には花が飾られ、テーブルには母が編んだレースのカバーがかけられている。父は港で荷下ろしの仕事をしていて、休みの日と夜はいつも古いソファーで本を読んでいる。ときどき、フロウにも遠い国の話を聞かせてくれた。

 扉を開けて荷物を置く。いつもは『おかえり』と出迎えてくれる母の姿がない。

 出かけているのか。こんな夕方に。いつもは家にいるのに。

 不安になって、フロウは家の中を探す。キッチンにも風呂場にもいない。母が針仕事をする小さな部屋にもいない。父の書斎にも。フロウの部屋にも。あとは、両親の寝室だけ。

 普段あまり立ち入らない部屋の扉に、そろそろと手をかけた。

 何か、においがする。

 いいにおいだ。お母さんが出してくれるご飯のにおいと同じ。

 だけど、ここは寝室なのに。

 不思議に思いながら扉を開ける。

 目に飛び込んできたのは、母の背中だった。壁が赤い。

 おかしい。うちの壁は薄い緑色だった。こんな変な模様はなかった。

 目に映る光景を心が拒否する。

 フロウはゆるゆると首を振る。帰る家を間違えたかと思う。

「フロウ……?」

 小さく名を呼んだのは母の声だった。震えて、抑揚がなくて、暗い。

 いつもの母の声ではない。だけど、母だ。

「お母さん……?」

 ゆらりと立ち上がった母の腕は真っ赤に染まっている。口元は鼻先や頬まで赤く濡れている。

 怖い。怖いけど……。

 おいしそうなにおいがする。

 どうして、どうして……。

 混乱するフロウを手招きする。

 母が誘う先にあるのは。

「——っ!」

 声が出ない。喉がヒリヒリする。目を閉じたいのに瞼は見開かれたまま、その光景を脳裏に焼きつける。

 父の顔の右半分はほとんどなかった。唇が引き千切られていた。胸には深く刃物が突き刺さっていた。腹からは何か赤いものがはみ出ている。

 血で染まりぐったりと壁にもたれている父の目が、ぎょろりと動いた。ゆっくりとその手がフロウに向かい伸ばされる。

「フロウ……」

 生きている。父はまだ生きている。

「フロウ、一緒に……」

 母が微笑む。血だらけの顔で。

「一緒に、食べよ」

 引き攣った悲鳴が迸った。喉から血が出そうだった。

 何が起こっているのだ。怖い。助けて……。

 幼い心が叫ぶ。

 だけど何より恐ろしかったのは、その血のにおい。

 血のにおいに、ひどく心惹かれたこと。

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