兎 其の一

 数日前、サナは何者かの気配を感じ取った。だが、相手はあまり接近してこなかったようだ。彼女の殺気は少しずつ和らいだ。

 フロウはナイフを彼女に返した。彼女は武器があろうがなかろうが攻撃してくるだろう。どうせ殺されるなら首を絞められるよりナイフで刺されるほうが多少なりとも楽に死ねそうだった。

 サナはナイフを革のカバーに納め、太ももに巻いた太いベルトに装着した。それをふわりとしたスカートで隠す。心なしか、安堵したような表情になった。

「ありがとう」

「何がだ」

 答えはない。サナは太もものあたりを撫でる。

「どうして勝手に探さなかった? 俺の武器もあった。持ち出す機会はあっただろう」

「わたしは泥棒ではない。奪うのは命だけ」

 それが自分の矜持だとでも言いたげに、真剣な顔で言う。だが少し考えて、困ったように首を傾けた。

「……嘘だ。食うに困ったときには盗みもする」

 フロウは何も言わずに肩を竦めた。それを責める資格はない。

「少し外に出てくる」

「わたしも行く」

「足は」

「だいぶいい」

 ブーツの紐を締め、トントンとつま先を鳴らして見せる。

「まだ走れない」

「走らなくていい」

 フロウが毛織物のマントを羽織ると、サナも外套を纏い、ついてきた。

 初冬とはいえ、晴れた日は暖かい。葉を落とした木々は陽の光を遮らず、山の中を明るく照らしていた。

 サナは少し歩き方が不自然だったが、手を貸すほどでもなさそうだ。自分から着いてくると言ったくせに、周囲を見渡してはつまらなそうに息をつく。

 フロウは歩きながら、幾種類かの木の実を拾った。

「これは食えるか?」

「椎と栃は煎るとおいしい。楢はダメだ。渋い」

 サナはフロウの掌からいくつかの木の実をはじき出す。

 よく知っている。その知識から、彼女が過酷な環境で生きてきたことが窺える。

「これは?」

「酢実。酸っぱいけど好き」

 細い枝に実った赤く小さな果実を二、三粒摘まんで口の中に放り込む。果汁が少しついてサナの唇を赤く染めた。

 舌がペロリとそれを舐める。フロウはそれを見て生唾を飲み、目を逸らした。

「欲しいのか? 食べると吐くんだろう?」

「……食べられたらいいなと思うよ」

 違う。山になる果実が欲しいわけではない。赤い唇に見入ってしまった。

 綺麗だった。血の色とは違う赤。甘酸っぱい果実で染まった唇。

「欲情したのか、わたしに」

「なっ……」

 何を言うんだ。反論しようとしたが声が擦れて出なかった。鼓動が速くなって、喉が渇く。急に顔が熱くなった。

 サナは冷めた調子で続ける。

「わたしに欲情する男は何人もいた。何かしようとしたから、全部殺した」

 吐き捨てる言葉には嫌悪感も恨みも籠もっていないように聞こえる。だけど微かに侮蔑の表情を浮かべていた。

「フロウもやめておけ」

「……しないよ」

 息苦しかった。胃の中が焼けるようで不快だ。サナを襲った男たちに憎悪を感じる。

 穢らわしい。死んで当然だ。

 ……勝手だな。自分もサナに劣情を覚えたくせに。

「フロウ?」

 腕を背後から掴まれ、ビクリとして振り向く。

「掴まってもいいか。足が痛い」

「あ、ああ……」

 警戒など欠片も抱いていない様子だ。もっとも、フロウがその気になったとて、今までの男たち同様、彼女の前に骸を曝すだけなのだろうが。

 ため息が漏れた。落胆なのか安堵なのか自分でもわからない。

 木の実を拾いながら歩いていると、サナの足が止まった。

「痛むのか?」

 サナは小さく首を横に振る。彼女の視線の先を見ると、茂みがカサカサと揺れ、何かが飛び出した。

「兎……」

「あいつも餌を探しているんだろう」

 耳をピンと立て、周囲を窺っている。こちらには気づいているようだが、すぐに逃げるほど警戒はしていないらしい。毛はすでに白い冬毛に生え替わっていて、ところどころ、夏毛が残っていた。

 こんな明るいうちから出歩いて、狐に狙われなければいいが。

「フロウは好きなのか、獣が」

「そうだな……たぶん」

 寂しさが紛れるから。そんなことはみっともなくて言えなかった。

「わたしも獣は好きだ。余計なことを言わない」

 サナが同意してくれたことにほっとして、フロウは唇を緩める。

 兎は先を急いでいるのだろう、枯れ葉を蹴って茂みの中へ消えていった。

「そういえば、サナはどうして川で倒れてたんだ」

「え……」

「話したくないなら、いい」

「洗っていた。手が汚れていたから」

 仕留め損なった獲物の血で。

 小さくサナは呟き、上腕にそっと手を添える。怪我をして血を流していた場所だ。

「この山にはお前の他にもいる。食人鬼が」

 そんなはずはない。この間も、ずいぶん警戒していたようだったけれど。

「フロウはいつからこの山にいる?」

「五年くらい前かな」

 ここにきたのは十二歳か。初めて人を狩ったのも。

 そのときには食人鬼はいなかった。フロウ一人だった。だからこの山を棲み処に選んだ。

 知らないうちに誰か住み着いたのだろうか。フロウのテリトリーと知らずに。

「その前は」

「違う場所で、俺を育ててくれた人と暮らしていた」

「親か」

 ずいぶん熱心に訊いてくる。

「他人だ。俺に生き方を教えてくれた。親代わりってところだ」

「怖かった?」

「そうだな……たくさん叱られた」

「殴られた?」

「え? まぁ、一度や二度は。だけどそれは、俺のためだから」

 その人は、フロウが一人で生きていけるよう、厳しく接した。怖いところもあったけれど、大切にしてくれていたのは知っている。

「そうなのか」

 サナはぽつりと呟く。虚空を凝視し、何度か唇を嚙んでいた。

「そうなのか……」

 やがて、彼女は長い息をついた。いつもは感情の乏しいその瞳には、はっきりと悲しみの色が浮かんでいる。

 その顔は年相応の少女に見えた。誰かの庇護下で生きる、か弱い少女に。

 だがすぐにその目には鋭い光が宿る。

 サナは全身を警戒で強張らせた。

 ガサリ、と茂みが揺れる。

 今度は兎ではない。もっと大きな生き物だ。

 誰か、いる。フロウも感じた。

 だけどこのにおいは……。

「よぉ、久しぶり。でかくなったな、フロウ」

 声と共に、男が茂みから踊り出た。

「待て!」

 慌ててサナの腕を掴む。すでに飛びかかろうと構えていた。強く引き寄せてもフロウのほうを振り返りもしない。一心に現れた男を見つめている。

「放してフロウ」

 冷静な声。だが、今にも獲物に飛びかかりそうな殺気を纏っている。フロウは両腕でサナを羽交い締めにする。

「ディア……何をしにきた」

 現れたのはフロウを育ててくれた男だ。もう五年は会っていないが、見た目はあまり変わっていない。フロウより少し年上に見えるくらいだ。

 灰色がかった金髪に、明るい茶色の双眸。背丈はあまり大きくない。痩躯にマントを纏っている。

「どういうつもりでその女と一緒にいるのか知らないが、そいつはお前を殺すつもりだ。俺も何日か前に襲われた」

 肩を竦めておどけたような顔をする。だが、目は笑っていない。

「……知ってるよ」

 フロウの答えに、ディアは意外そうに片方の眉を上げる。

「忠告はしたからな。お前はもう子どもじゃない。あとは自分で考えろ」

 そう言い残し、ディアは再び姿を消した。懐かしむ暇もなかった。

 サナは身を捩りフロウの腕から逃れようとする。いくらサナが戦闘に長けていたとしても、単純な腕力ならフロウのほうが上だ。フロウはさらにきつく彼女をホールドする。

 サナに傷を負わせたのはディアだ。フロウが見つける前、二人は対峙した。

 だけどどうしてディアがこの山に。遠く離れた洞穴で暮らしていたはずだ。

「放して、フロウ」

「さっき言っただろう、あれは俺を育ててくれた……」

 サナは肩を捩りながらディアが消えたほうを凝視している。

「放して! あいつが逃げる!」

 甲高くサナが叫ぶ。

「殺さなきゃ」

 唇が戦慄く。蒼白な顔で、唇だけが異様に赤く見えた。

「殺さなきゃ……お父さんに怒られる。殺さなきゃ……」

 うわごとにように呟く。目は爛々と光り、フロウのことなど見ていない。

 獲物を追う目だ。

「サナ、頼むからやめ……」

「……放せっ!」

 スカートがめくれ上がり白い太ももが覗いたかと思うと、シュッと頬に熱いものが走る。次に痛みを感じた。

 目の前には、ダガーナイフを構えたサナの顔があった。驚いて目を丸くしている。自分の行動を自覚していないようだった。。

「あ……」

 フロウの胸元に血が滴り落ちて服を汚す。

「ごめんなさい……っ」

 引き攣ったように息を吸う。

「ごめんなさい、フロウ」

 フロウは静かに首を横に振った。

 ディアには恩がある。情もある。彼には生きていてほしい。

「……もう行ったよ」

「うん」

 視線が泳ぐ。こんなにも頼りなげな表情をするのか。

「フロウ、わたしは……」

 サナは顔を上げる。困ったように眉を下げていた。しばしの逡巡のあと、サナは大きく息を吐き、消え入りそうな声で告げる。

「食人鬼に育てられたの」

 サナは再び、もう誰もいない木立を凝視する。微かに肩が震えていた。

 フロウは固唾を呑み次の言葉を待ったが、サナは凍ってしまったようにそれ以上は何も言わなかった。

 空からは花弁のような雪が舞う。

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