殺戮者の理 其の二

 朝霞の中をフロウは歩いていた。早朝の山中は冷え込む。毛織物を肩から羽織った。毛皮のすね当てはまだ早いが、もうすぐ必要になるだろう。

 すぐそばを鹿の親子が通り過ぎていく。白い尾が薄暗い木立の中で揺れていた。

 この近くに暮らす動物たちは、フロウを警戒しない。彼らを捕食しないとわかっているらしい。

 フロウは僅かに唇を緩める。動物たちの息吹を感じると安堵を覚えた。

 暖炉に使う枯れ枝を集めながら、長めの枝を探した。

「これでいいか」

 細かい枝を落として持ち手を滑らかに削れば、杖の代わりにはなるだろう。

 先端でコツコツと地面を突いてみる。小石が斜面から転がって落ちた。

「いや、もう少し」

 もっと適した枝があるかもしれない。そう思い、フロウはさらに歩いた。

 今日見つからなければ、明日またくればいい。明日も見つからなければ、また……。

 何をやっているのだろう。

 サナを早く追い出してしまいたいのに。彼女は自分の命を脅かす存在なのに。

 立ち止まり、拳を握り締める。

 自分の弱さに苛立った。心の奥底に潜んでいた欲望が噴出する。

 一人は——嫌だ。

 愚かだ。自分を殺そうとした女を手元に置こうというのか。

 いや、昨日はあれ以上襲ってこなかった。もしかしたら、フロウを殺すのはやめたのかもしれない。

 もう少し。せめて怪我が完全に治るまで。

「本当に、バカだ」

 乾いた笑いが漏れる。その自分の吐息に重なり、微かに枯れ葉を踏む音が聞こえた。

 振り返る間もなかった。

「……ぐっ」

 不意に背後から飛びつかれた。羽交い締めにされ、首を絞められる。

 細い腕。白い肌。彼女だ。細い身体が背中に押しつけられる。

 足がフロウの腰辺りに絡みつく。身を捩ったくらいでは解けない。

 気道が塞がる。息ができない。目の前がくらりと歪んだ。

 このまま無抵抗でいてもいい。そんな気もした。

 そうしたら、もう人を殺さずにすむ。食わずにすむ。

 孤独は終わる。何もかも、終わる。

 目の前を小鳥が飛び去っていく。空の色は灰色だ。雲に遮られ、陽の光は遠い。

 ——遠いけれど、太陽は空にある。

 再び目眩がして、考えるのをやめた。

 フロウは背中に貼りついているサナの肩を掴み、勢いよく半身を前に折った。

 腰に回された足は解けたが、腕は執拗にフロウの首に絡みつく。

 サナの腕を放さないまま、思い切り地面に投げた。フロウもバランスを崩しそのままもつれ合いながら倒れ込む。

 降り積もった枯れ葉が舞う。

 フロウは咳き込みながら冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。喉がヒリヒリとした。

 ようやく息が整い顔を上げると、投げ出されきょとんとした顔のサナと目が合った。

「……悪い」

「何故謝る」

 背後から首を絞められたのだ。当然の抵抗だ。

 フロウは絞められたところを撫でる。

「……何故だろうな」

 くすりと笑いが漏れた。何故、笑ってしまったのかわからない。

 曇天を再び見上げると、白いものがふわりと降りてきた。枯れ葉の上でしばし留まり、その形をなくしていく。

「早いな」

 幾度目だろう。この山で冬を迎えるのは。

 退屈だった。季節の中で一番、時間を持てあました。寒さには対策を立てることができたが、孤独に対抗するのは難しい。どれほど術を持っていたとしても、だ。

 サナはぽかんと口を開けたまま虚空を見つめ、足先をぶらぶら揺らす。

 失敗を悔やんでいる様子もない。振り解いたフロウに怒っている様子もない。

 フロウが見つめていることに気づくと、何か、とでも言いたげに首を傾げた。

「仕事なのか」

「え?」

「サナが食人鬼を狩るのは」

 問いかけに、サナは少しだけ眉を寄せる。

「仕事……」

「働いて対価を得ることだ」

 たぶん。フロウ自身も労働についてよくは知らない。

「対価は得ていない」

 じゃあ、何のために? フロウが問う前にサナは口を開いた。

「ただ殺す。そのために生まれたから」

 サナは膝を抱えて、掌を翳す。その上に初雪が落ちる。すぐに溶けて雫になって彼女の手から零れた。

 殺されかけて感じた、彼女の温度を思い出す。その冷静な表情に反して、体温は高かった。

 フロウは立ち上がる。酷い目に遭ったというのに、心は少しだけ軽くなっていた。

「帰ろう」

 枯れ葉に埋もれるように寝転んだままのサナに手を差し伸べる。

「そんな薄着じゃ冷えるだろう」

 サナは外套も着ていない。薄手のワンピースから覗く腕も足も気の毒なほど血の気がない。

「お前、変わってるな」

「そうだな」

 認めざるを得なかった。

 笑いが漏れる。自分の愚かさに。

 ……いや、それだけではない。おそらく。

 サナは不思議そうな顔のまま、フロウの手に手を重ねる。

 見た目は小さくて頼りないが、指先も掌も皮膚が硬くなっていた。その手をしっかりと握り、引き上げる。

 さらさらとまだか細い雪が降る。枯れ葉を踏みながら、二人で歩いた。

 サナはフロウの手を解こうとはしなかった。ときおり、居心地悪そうに指先をもぞもぞとさせていただけだ。

 家に着きフロウが湯を沸かし始めると、サナは鞄の中から携帯食料を取り出した。

「もう残り少ないじゃないか」

「うん」

 人里まではけっこう距離がある。すぐには食料は手に入らないだろう。

 フロウも彼女に与えてやれる物は持ち合わせていない。山で食糧を集めるにも、これからの時期は厳しくなる。

 もっとも、当の本人は心配していないようだが。

 薬草茶を煎れて出してやると、サナは両手で受け取った。ずいぶん気に入ったらしい。雪が積もる前にもう少し薬草を摘んでおくか。

「フロウは?」

「俺はまだ大丈夫だ。人間ほど頻繁に食わなくても」

 フロウも薬草茶を一口飲む。苦くて青臭くてまずい。

 食べ終わって人心地ついたのか、サナは思い出したように挫いたほうの足を摩った。

「痛いのか」

 こくりと頷く。だが、表情は痛みを感じているようには見えない。

「昨日より腫れてる。無理に動いたからだろう」

 フロウが逃げたとでも思って追ってきたのだろうか。それを問おうとしたが、先にサナが口を開いた。

「雪……」

「ん?」

「雪は嫌いだ」

 サナは両手で自分の肩を抱く。フロウは肩に毛布をかけてやった。

 雪が嫌いか。それなら、一日でも早く山を降りたほうがいい。食糧が尽きる前に。

 空になったカップを両手で包んでいたサナがふと顔を上げる。耳を澄ますように一点を見つめ、音もなく立ち上がった。窓辺から外の様子を窺う。

「どうした」

「この山にはフロウの他にも食人鬼がいるのか」

「いや、いない」

 そのはずだ。食人鬼は単独で暮らす。発情期と子育てをするペア以外は。

 サナは壁に身を潜めながら窓の外をしばらく見ていた。フロウには、いつもと同じ朝の風景としか思えない。

 やがてサナは警戒を解き、ベッドの上に戻ってきた。

「誰かいる」

 その言葉に緊張が走った。

 通常、テリトリーを荒らすことはしない。無用な争いを避けるために単独で暮らしているのだ。そう教えられた。

 だが、何かの理由で自分のテリトリーを追われた者が、新たな棲み処を探している可能性もある。まだ若いフロウがこの縄張りの主だと知って、狙っているのか。

 やはりサナはここにいるべきではない。

「サナ」

 無理をしてでも、山を降りるべきだ。継ごうとした言葉を、サナが遮る。

「フロウ、わたしのナイフを返して」

 サナは淡々とした声で告げる。唇の端が、ほんの僅か歪んだ。

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