殺戮者の理 其の一

 サナの動きは、その可憐な容姿に反して堂に入っていた。我流ではない。訓練を受けた者の所作だ。無駄も迷いもない。

 逆手にナイフを持たれたせいで迂闊に動けない。間合いがわからないのだ。

 サナはナイフを隠した利き手でフロウの喉元を狙う。躱すのがやっとで反撃の機が見えない。

 フロウも多少の心得はある。一人で生きていくために身につけた。

 だから、わかる。

 体格や腕力の差など問題にならない。彼女のほうが強い。自分の戦闘術など付け焼き刃に過ぎない。

 られる——。

 覚悟していたことだ。誰かに刃を向ける者は、いつか誰かに刃を向けられるのだ。

 わかっていた。それを望んだこともあった。

 それでも、悔いは残る。

 今、ここで死ぬのなら——食わなければよかった、あの人を。

「……あ」

 突如、サナが膝を折る。視線はフロウに据えられたままだ。ぽかんと口を開いて不思議そうな顔をしている。

「ナイフを下ろしてくれるか」

「……ん」

 素直にサナはナイフを手放した。フロウはそれを拾い上げた。顔が映るほど磨き上げられているが、その刃物からは血のにおいがする。

 幾人かの同胞のにおいだ。

 フロウはナイフを棚にしまうと、跪いてサナの足首に触れた。くるぶしと足の甲に手で圧力をかけていく。ぴくりと足の指が引き攣るように動いた。

「痛いか」

「うん」

 さして痛みなど感じてなさそうな軽い調子でサナが頷く。

「折れてはいなさそうだ。挫いたんだろう」

 内出血も腫れも重度のものではない。だが、痛みはそれなりにあるだろう。

「よくあれだけ動けたな」

 フロウはサナを抱え、再びベッドへと運んだ。横たえようとすると、不意に襟首を掴まれる。

「わたしを殺してもいいが、食うのはやめておけ」

「知っている。お前からは嫌なにおいがするからな」

 それに、空腹ではない。今は。

 サナの手を払い、湿した布を患部に当ててやる。冷たいせいか、サナは足の指をきゅっとすぼめた。

「なぜ助けた」

 サナは問いかけながら、自分の鞄の中を探り、携帯食料を取り出した。ブロック状のビスケットらしき物に無造作にかじりつく。見るからにパサパサしてそうな食物だ。フロウはもう一杯、薬草茶を注いでやる。

「腫れが引いたら、すぐにでも山を下りたほうがいい。じき、雪が降る」

 彼女の問いには答えなかった。自分でもよくわからなかったからだ。

「雪か」

 サナは小さく呟き、薬草茶を一息に飲む。少し咽せて涙ぐむ顔は幼い。

「嫌いだ」

 パチパチと暖炉で火が爆ぜる音がする。外は風があるようで、葉擦れの音がした。

「杖を作ってやるよ。明日、手頃な枝を拾ってくる」

「早く追い出したいか、わたしを」

「死にたくないからな」

 自分で言ってみて、嫌な気分になった。生きたいという思いが酷く浅ましいように感じたからだ。

「死にたくない、か」

「食ったばかりだからな」

 感情を込めずに言う。だが胃がぎゅっと締めつけられるような感じがした。一方のサナは顔色一つ変えない。

「人間を」

「そうだ」

 食った。今朝のことだ。山越えをする商人を捕らえて食った。若い男だった。真新しい銀の指輪を嵌めていた。食い残しは山の動物たちが越冬の糧とするだろう。

 背負った籠に入っていたのは、遊牧民の手による色鮮やかな織物だった。

 フロウの家にある僅かな家財は、元々この空き家にあった物の他は、食った人間の持ち物だ。

「うまいのか」

 その問いに、フロウは息を呑む。

「……わからない」

 生きるため。ただ、生きるためだ。

 フロウは食人鬼だ。

 人間以外は受けつけない。試したことはある。他の動物の肉も、魚も、野菜も、穀物も、そのほとんどを吐き出した上に高熱を出した。罪悪感に苛まれた。食えないのなら殺さなければよかった。

 それから、人間以外は二度と口にしなかった。唯一、受けつけるのは茶の類いくらいだ。それも多く摂取すると目眩がする。

 思い出して嘔吐きそうになるが、堪えた。

 自分から訊いたくせにもう興味を失ったのか、サナは欠伸を一つした。

「最初苦いと思ったけど、慣れるとおいしい」

 言いながら、サナは薬草茶を催促する。乞われるままに、もう一杯入れてやった。今度はそれをゆっくりと味わうように飲む。カップごしに見つめてくるサナの視線から逃げるように目を逸らした。

「嫌悪することはない。生きるためだろう」

 生きるため。生きるため……。

 フロウは頭の中で繰り返す。生きるために別の生き物を犠牲にする。どんな生き物もその業からは逃れられないと、育ての親から教わった。

「わたしはお前たちを食わないが、殺す」

 サナは無表情だった。彼女の華奢な手は、何人の同胞を葬ったのだろう。

「人間に害する俺たちを狩るのは正しいことだろう」

「正しい?」

 しばし、サナは頬に手を当てて考える。不思議そうに首を傾げる様子は、栗鼠のようだ。

「人間も殺す。わたしに害をなすなら」

 事もなげに言い放つ。当然のことだと言わんばかりに。

「わたしは食わない。だが殺す。その命は無駄になる。お前は殺した者を糧とする」

 しばし黙り込み、言葉を探すように天井を仰いでいた。だが何も浮かばないのか、サナはわずかに眉を寄せる。

「……そうだな」

 すべての生き物は、何かの命を犠牲にしている。そう教わった。だから罪の意識など捨てろと。

 生きていくのには邪魔にしかならない、と。

 あの人は元気でいるだろうか。彼の元を離れてずいぶん経つ。血の繋がらない自分を拾って育ててくれた人だ。

 苦しい。懐かしくて、胸が痛い。このところ思い出すことも減っていたのに。

「フロウ?」

「……なんでもない」

 フロウは脳裏に浮かんだ面影を振り払う。

 もう会うこともない人だ。

「ごちそうさま」

 サナはカップを置くと、毛布をすっぽりとかぶり、寝息を立て始めた。

 無防備に眠る少女を、フロウは困惑しながら見つめる。

 久しぶりに名を呼ばれた。誰かと言葉を交わした。

 だから思い出してしまった。

 自分が、孤独だということを。

 孤独に生きていかねばらならないということを。

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