水の棲み処

絢谷りつこ

水の流れが運ぶもの

 枯れ葉が一枚、目の前に落ちて流れていく。

 山には冬が近づいていた。川の水は冷たく、指先がじんじんと痺れ感覚がなくなってきた。それでも、手を洗う。

 自分の手がひどく汚れているようで。

 まだ、血のにおいがするようで。

 手を洗う。体温を奪われて肌が白くなるほどに。

 感覚がなくなってきた。そう思ったのに、突如、鋭い痛みが指先を襲う。

 ——なんだ。

 目を凝らすと、清流に一筋、赤い糸が泳いでいる。

 血だ。上流から血が流れている。

 慌てて立ち上がり、濡れた手を拭う。まだ痛みが爪の間に残っている。

 血の源流を確かめようと、川沿いを歩いた。赤い流れは先ほどよりも色濃く太くなる。

 同時に、血のにおいが鼻をついた。

 新しい、瑞々しい血のにおいだ。人間の……おそらく、若い女。

 だが、何か嫌な感じがする。

 食欲をそそらないにおいだ。

 不思議に思いながら、傾斜の強い川沿いを登る。慣れていなければ容易に足を滑らせるような険しい道とも言えぬ道だ。

 茂みから鹿がこちらの様子を窺っている。梢からはつがいの鳥が飛び立った。塒へ帰る時間だろう。

 しばらく上流へと進むと、思った通り人間がいた。岩に突っ伏して倒れている。近くの木には外套がかかっていた。

 水浴びでもしていたのか? この寒いのに。

 この辺りの川の流れは早い。油断するとすぐ足を取られてしまう。この女も大方、不用意に水に入って転倒したのだろう。

 この森から人里まではずいぶん遠い。いったい、どこからきたのか。旅人にしても軽装すぎる。荷物は木の根元にある小さな鞄一つのようだ。

「おい」

 短く声をかけるが、応答はない。

 血は腕の怪我から流れているようだが、すでに傷は塞がりかけていた。それほど深いものではなかったのだろう。

 仕方なく、水に入って女を肩に担ぎ上げる。拍子抜けするほど軽い。灰色がかった金髪からはぽたぽたと水が滴り落ちる。肌は冷えたせいか蒼白だった。

 家に着くと、女の濡れた衣服を脱がせるとシーツで包んでベッドに寝かせた。暖炉に火を入れると、ぼんやりと橙色の明かりが部屋の中を照らす。

 石造りの家は冷え込む。さらに毛布を引っ張り出し、かけてやった。軒下で乾燥させていた野草をいくらか摘み、湯を沸かす。鄙びたにおいはあまり好きではないが、身体が温まる。そう教えられた。

「誰」

 物音に気づいたのか、女が起きた。

 声には愛想もなければ、恐れも不安も含まれていない。若く澄んだ声だが、ひどく無機質だ。ボサボサの髪から覗く双眸はアッシュブラウン、髪と似た色だ。

「鞄」

 周囲を見渡す女に、拾った鞄と服を放ってやる。

 髪を整え身繕いを済ませた女は、思ったよりも若かった。少女と呼んでもよいくらいだ。

 自分と同じくらいの年齢だろうか。十六か、十七歳。二十歳には満たないだろう。

 再び、少女は問う。感情のこもらない声で。

「誰」

「フロウ。そう呼ばれていた」

 今では名を呼ぶ者はいない。それは言わなかった。

「フロウ」

 少女はゆっくりと発音する。ざわりと肌が粟立つ。いつもより速い、自分の鼓動を感じた。

 じっとこちらを見つめてくる少女から目を逸らした。ゆらめく湯気が見えて、薬草茶を煮出していたのを思い出した。それを銅製のカップに注ぎ、水で薄めて手渡してやる。自分も一口飲む。苦かった。

 少女はためらいもなく口をつけた。微かに眉を寄せたのは、不味いせいだろう。しかし喉が渇いていたのか、すべて飲み干した。少し頬に赤みが差す。

「お前の名は」

「サナ」

 自信なさそうに呟く。何故、名乗るのに不安げな表情を浮かべるのだ。

「何をしにこんな森の中へきたんだ。一人で」

 問いかけても答えはない。

「サナ」

「フロウ」

 名を呼ぶと、彼女も真似て名を呼んだ。先ほどのような動揺はなかったが、落ち着かない心持ちだ。

 フロウは少し唇の端を上げてみる。笑っているように見えればいいのだが。

「誰かに名を呼ばれたのは久しぶりだ」

「そう」

 対して興味もなさそうにサナは応じ、自分の上着を引き寄せる。まだ寒いのだろうか。

 何か着るものを出してやろうと立ち上がると、彼女が背後に立った。

「どうした」

「さっきの答え」

 振り向きざまに何か鋭利な物がフロウの首筋を掠め、髪を一筋落とした。黒い髪が床に散らばる。

 フロウは飛び退り、距離を取った。サナは腰を低くし得物を逆手で構える。

「この森に何をしにきたか」

 澄んだ、まだあどけなさの残る声が告げる。

「狩り」

 華奢な手に握られたダガーナイフが閃く。

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