第4話 酔いはどこまでも遠く

 歓迎会という言葉にはやはり疑念を覚える。

 この島で梓のことを歓迎している人間など果たしているのかという話だ。事実、梓にこの一週間の仮宿として与えられたのはありふれた一軒家だった。旅館などではないので世話をしてくれる人もいない。いや、ここが都会で、歩いて数分以内にコンビニや牛丼屋、コインランドリーでもあればそんなものは求めない。しかも、梓は島民に自分の出自を明かすことも避けなければならない立場の人間らしいのだ。

「おー、結構いいところじゃないか。外観は寂れているけど、家具やなんかは結構高級だよ」

「そうですね。あとはカップ麺の備蓄でもあれば何も問題なかったんですがね」

 アンティークと言っても差し支えのない前時代的な高級そうな椅子に楽しげに座っている夏生に笑われた。

「やはり、君も都会の子なんだね。カップ麺は体に良くないよ。あれは非常食として食べるのがいいんじゃないか」

 だから、まさに今が非常時だと言っているのだが。そして、非常食として食べるカップ麺は多分あまり美味しくない。

「ぼくだって普段はカップ麺なんて食べませんよ」

「ほう。親に愛されているんだね」

「…………」

 そんな理由ではない。親ではなく、彼女に言われたから食べなくなったのだ。カップ麺も冷凍食品もコンビニ弁当も、もう随分と食べていない気がする。この夏は食事を作ることどころか食べることも億劫だったが即席物を食べる気も起きなかった。

 それに本当に自分を愛している親ならば、こんなところに息子を一人送り込むものなのだろうか。どうでもいい話であるが。

「……ともかく、今日はありがとうございました。今日はもうシャワーを浴びて寝ます」

「おいおい、まだ歓迎会もしてないだろう。それに寝るのにはまだ早すぎるよ」

 電子煙草を吸って煙を吐き出しながら笑う姿はどこか現実離れしている。いや、単にまだまだ真っ当な道から踏み外せていなかった梓では出会うことがなかった人種、ということだけなのかもしれない。とは言え、いくら浮世離れしてようが現実に目の前におり、梓が相手をしなければならない相手である。しかし、もう疲れていた。

「歓迎会って本気だったんですか?」

 こちらの気怠げな様子など微塵も気にした風もなく、夏生は果実の香りの煙を漂わせる。

「本気に決まっているだろう。美味しい料理、美味しいお酒、美しい女性、これらで梓君を歓待しようと三日も前から寝ながら考えて計画していたんだよ」

 ここまでてきとうなことをてきとうに言う大人と梓は正直会ったことがない。

「夏生さん、料理はともかく、お酒も綺麗な女性も今回はなしですよ」

 呆れたような声とともに少女が襖を開けて部屋に入ってきた。

 一瞬、硝子かと思ったが一回りくらい小さい。艶のある黒髪と健康的な赤みが微かにさす白い頰、幼さを多分に残した儚げな線の愛らしい顔立ちの少女だった。小柄であるが、学生服を着ているので中学生くらいに見える。

「お、待っていたよ、鏡子ちゃん」

「待っていたのは、映子姉さんと姉さんが作った料理ですよね。でも、今回は姉さん体調崩して来ないんですよ」

 鏡子と呼ばれた少女は苦笑しながら、やけに大きな包みをテーブルの上に置いて広げる。いかにも高級そうな重箱で、中身も運動会のお弁当のように手間がかかっており、見た目も華やかだった。

「それは残念。でも、こんなことはあろうかとお酒は持参したし、鏡子ちゃんみたいな綺麗な女の子がいるから問題ないよ」

「こんな子供にお酌をさせても面白くないでしょう。ほんと、夏生さんは真面目にしようと思えばできるのにしない人なんですから」

 夏生の軽口に呆れたような物言いをしつつも少女は微笑んでから、梓に顔を向けてきた。

「ところで、そちらは……?」

「ああ。紹介しよう。今回、あちらの渡辺家の代表としてきてくれた渡辺梓くんだ。鏡子ちゃんたちとは再従兄妹の関係になるだろうね」

「……ええと、男の人ですよね? 夏生さん、またどうでもいい嘘を吐きましたね?」

 鏡子が咎める、と言うには些か可愛らしい非難の目を向けると夏生は楽しげに笑って体を揺らした。

「別に嘘は言っちゃいないよ。今度来るのは時継さんのお孫さんの渡辺梓という子だと言っただけだ。君らが勝手に女性だと勘違いしただけさ」

 口ぶりから察するに誤解することを分かってて言ったのだろう。嘘より質が悪い。平素からそういう人物であるのか慣れた様子で鏡子は小さく嘆息した。

「だから、硝子姉さんが不機嫌だったんですね。はあ。映子姉さんなんて女の子が来ると思って張り切りすぎて体調を崩したって言うのに……」

「軽いサプライズだったんだけどね。それに高校生の男子なんて伝えてたら君らは歓迎会どころか迎いすらしてくれなさそうじゃないか」

 悪びれもせず朗らかに、むしろ一滴毒を滲ませるように夏生は笑って返す。

「少なくともわたしは迎えに行きますよ」

「硝子ちゃんあたりが止めるだろうさ」

 容易に想像がつくのか鏡子は困った顔をした。平素からあの少女はそういう態度のようだ。

「だからと言って、嘘を吐いても溝が深まるばかりでしょう。……もう、いいので夏生さんは飲み物でもなんでも持ってきてください」

 車にでも積んでいたのか、外に出る夏生を見送ってから鏡子は小さくため息を吐いた。それから梓がいたことを思い出したように少し緊張気味に佇まいを正した。

「ごめんなさい、きちんとご挨拶をしていませんね。わたしは本家の三女で鏡子と言います」

 中学生くらいの少女ではあるが、良家の子女を思わせる礼儀正しさだった。いや、実際にここの本家は良家なのだろう。とは言え、冷淡な硝子とは違い、わずかな緊張が見られるので可愛げがある。

「ええと、正直、少し年上の女の子が来ると思っていたので驚いていますが、昔からお兄さんが欲しかったので大丈夫です」

 硝子とは外見がよく似ている姉妹だが、中身はだいぶ違う。とりあえず、梓は微笑んで見せる。

「ああ、ぼくも男だけの四人兄弟だったから姉か妹が欲しかったんだ。短い期間だけれど迷惑はできるだけかけないようにするので仲良くしてほしい」

 これは嘘だ。

 いや、嘘ではなかったかもしれないが、正直、そういうことを思っていたかどうかあまり覚えていない。まあ、どうあれ、本心から程遠い社交辞令でしかなかった。けれど、目の前の少女は安堵の笑みを浮かべた。

「優しい人で良かったです。先入観はよくないと思うんですが、どうしてもそちらの家の話は少なくて……」

 放蕩の限りを尽くし家を傾けた挙句、当主の座を引き摺り降ろされ島流しにあった人間の孫。

 結局、そういう前提なのだろう。目の前のこの娘や、そして、一応忠告をしてきた硝子はまだしも良い部類で、大人連中はこの機会にこちらを責め立てようとしているという可能性もありうる。

 その場合、梓はどういう対応をすればいいのだろうか。正直、その時、自分がどういう反応をするのかわからない。

 実際、祖父の顔すら写真で見たことしかない。亡くなった優しい祖母と酔って苦い記憶を酒に滲ませる父を思うとその仕打ちに耐える意義すら見出せない。そもそも意義どころか義理も意志も最早持ち合わせてはいない。

 本当のところ、自分に守るものなど何もないのだし。

「…………」

 ふいに、なぜ両親が、いや、父がここに自分を送り込んだのかわかった気がした。馬鹿馬鹿しい妄想のような話ではある。だが、考えてみたら、むしろ、こんなあり様になってしまった三男坊を断絶した本家の葬儀に名代として送り込むほうがありえない。世間にはまだはっきりと気づかれていないが、家族には梓がろくでなしになってしまったことを気づかれている。

「でも、ちゃんと会って話してみたら、優しいお兄さんで安心しました。ごめんなさい」

「……まあ、そういうものだよ。硝子さんにも忠告されたし、この島では葬儀が終わるまで用事がなければ大人しくこの家に閉じこもっているよ」

 父がどういうつもりで自分に任せたのか本当の所はわからないが、結局の所、実家でやることと変わらない。いる場所が変わっても、自分というものは変わらない。変わりようがない。

 むしろ、学校がない分、家の中で過ごす時間が膨大になってしまった。問題は本がないことだ。この古い家の古い椅子に座り、天井を眺め続けながら延々と何かに思い巡らすことくらいしかできない。それはまるで出口のない迷路を這いずり回る様と似ている気がした。

 なんとはなしに、テーブルに置いていた文庫本に触れる。紙の柔らかい感触に少しだけ気分が落ち着いた。

『図書館の大窓に散らばった星空』『本を照らす蝋燭の灯』『月明かりが差す薄暗い校舎』

 なぜだろう。なぜ、忘れることができないのだろう。せめてこんなに風に思い出さなければまだいいのに、と思う。きっと本もよくない。梓にとって本は一人で読むものではなかった。だから、人と話している時に本に触れる行為自体がきっとよくないのだろう。

「じゃあ、時々、こちらに遊びに来てもいいですか?」

「……え、ああ、別にいいよ」

 思考に沈みかけていた意識が声にすくい上げられた。目の前には初対面の年下の少女がいる。一瞬、なぜ自分はこんなところにいるのだろうか、という思いに梓はとらわれた。先ほど聞いたはずなのに、目の前の可愛らしい少女の名前が思い出せない。なんだったか。姉の名前は確か硝子だ。頭の中で色々な名前が浮かぶが目の前の少女の顔と結びつかない。

 最近こういうことが多い。夏休み明けで何度かクラスメイトの名前を上手く引き出せなくなった。勘のいい友人などはそのことに気づいて、他人に興味がないからだと、冗談交じりに揶揄するように言ってきた。

 憤りはしなかった。名前を忘れることが相手が失礼なことと感じると理解して、その上で自分は悪いと思っていないのだし、もともと自分が他人に関心が薄い人間であることも自覚している。それに、そもそも彼らは知らないのだ。けれど、梓は何も言っていないからそれも仕方がない。

 それに彼らも、そして、他の彼らも彼女らも結局同じなのだ。忘れているのは、お互い様だ。忘れてしまったことに罪悪感を抱いていないのもお互い様。

 梓は自分が酷い人間であることを知っている。彼ら彼女らは自分が酷い人間であることを知らない。ただ、それだけだ。

 だから、何を言われても無意味だし、何を言っても思っても無意味だ。

「おや、ちょっと離れた隙に仲良くなったみたいだね。若者はいいね」

 クーラーボックスと酒瓶を抱えた夏生がからかうように笑って戻ってきた。アスファルトと比べれば悪路だった道すがらやけに車の後ろの方でガチャガチャとうるさかったがまさか酒だったとは。

「若者って。夏生さんも十分若いじゃないですか」

「そう言ってくれるのは鏡子ちゃんだけだよ。硝子ちゃんなんてあからさまにおじさんと話したくないって顔するんだよ」

 そう。鏡子だ。夏生の口から彼女の名前を聞いてようやく結びついた。

「それは単に日頃の行いが悪いだけでは」

「ははは。なんか最近、硝子ちゃんに似てきたね。反抗期かな?」

「別に硝子姉さんは反抗期だから夏生さんに冷たいというわけではないと思いますけど」

 人を食ったような朗らかな笑み絶やさない夏生と、困ったような笑みで返す鏡子の姿は気心の知れた仲のように見えた。当たり前だが、彼らは親戚なのだろう。島という物理的にも精神的にも閉鎖的な空間であるならば、こういう関係性になるのだろう。そして、血の縁はあっても梓はあくまで異邦人である。

「いやいや、しかし、実際、若い子たちはすぐに仲良くなれていいと思うよ。梓くんのお兄さんの秋春なんて何度殴られたか」

 軽くなんでもないように語られた言葉に梓は眉を顰めた。秋春は長兄の名前であるが、あの人が声を荒げたり暴力を振るう姿を見たことがない。梓は長兄が好きではないが、夏生の冗談は誹謗中傷が過ぎるように感じた。

「はあ。でも、夏生さんも柔道の有段者でしょ?」

「うん。勿論、殴って来るたびに、投げ飛ばしてやったよ」

「いい大人が笑顔で言わないでください。大人って言うより、幼い子供みたいです」

 呆れた様子の鏡子に対して、夏生は楽しげに笑う。

「大人なんて結局、幼い子供と一緒だよ。責任を負わない故の幼い子供の自由さと自己責任故の大人の自由さはとてもよく似ているのさ。まだ、教育課程に押し込まれている君らのほうが不自由だし、それ故に人を気遣える。だから、仲良くなるのも容易いのだろうね」

 人を気遣える人間は余裕があるから寛容だからね、と夏生は嗤った。

「別に、大人のすべてが夏生さんみたいに自分勝手でいい加減というわけではないと思いますけど」

「ははは。これは手厳しい」

 夏生は笑いながらクーラーボックスから取り出したロックアイスをグラスに入れて、白ワインを注ぐ。

「でも、実際、幼い子供のような中身の大人なんて腐るほどいるよ。大人の行動原理なんて善意よりも自分の損得と感情ばかりさ。ちゃんとしているように見えてもそれはそうしないと自分が後々困るからということでしかない。結局、幼い子供とそう変わらない」

 半分ほど白ワインと氷で満たされたグラスにソーダ水を夏生は注ぎ込んだ。薄い黄褐色の液体の中で小さな水泡がいくつも浮いては消える。

「大人の方が法律や礼儀作法なんかのルールで縛られるのは、結局、そうしなければならないほどダメな大人が多いからなんだよ」

 瀟洒なバー・スプーンでグラスを一度かき回してから、夏生はグラスをあおる。当然、梓たちは飲んでいないので、微かではあるがアルコールの匂いが空気に混じったのを強く感じた。

 まだ酔っていないのだろうが、はたから見れば、酒を飲んで未成年たちにくだを巻くダメな大人にしか見えない。

「んー、結局、その話は何が言いたいんですか?」

 新たなグラス二つに同じものを作り始めた夏生に真面目なのか鏡子が問うと、夏生はグラスに注ぎながら器用に電子煙草を吹かして笑う。

「そうだね。つまりは、大人なんて自分のことか下らないことしか考えていないから、君ら子供がそれに悩んだり振り回されたりする必要はないってことかな。勝手な大人に振り回されることほど人生の無駄遣いはないよ」

「ここに硝子姉さんがいてくれればよかったです」

「あの子は真っ直ぐ過ぎるからね。酒も煙草も無駄なものと切り捨てるタイプの子供だよね」

「別に硝子姉さんは、お酒や煙草をするから夏生さんをろくでなしと思っているわけではないと思いますが」

「ははは。ろくでもないことに自覚のある大人と自覚のない大人、どっちが質が悪いんだろうね」

 哲学的なようで、ろくでもない疑問だ。普通に答えるならばどちらもろくでなしの時点で五十歩百歩だと梓は思う。だが、心情的には、やはり後者のほうが悪質だとも思う。結局、自覚がない者は、反省も後悔もしない。しかし、自覚したところで直せなければ同じことでもある。そして、人間は簡単に良い方向に変わることはできない。

 変わりたいと願って、簡単に変われたらどれほど楽だろう。

 夏生が白ワインのソーダ割りのグラスを梓と鏡子の前に置いた。自分の前に置かれた半透明の液体を眺めて鏡子はため息を吐く。

「未成年にお酒を飲ませる大人ってろくでもないと思いません?」

「じゃあ、君のお父さんを含めて渡辺家の偉そうなおじさんたちは大体ろくでもないってことになるね」

 田舎では、と言うか、どこでもありがちな話ではあるが、鏡子も事実だけに言い返しづらいようだった。

「まあ、僕は子供がお酒の飲んで顔をしかめるのを見て楽しむ最低な人たちとは違うよ」

「はあ。どう違うんですか」

「お酒に慣れていない女の子が酔っている可愛い姿を見て楽しむんだよ」

 最低だ。

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アウトランドスの猫 茨木夕樹 @Yyuki678

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