第3話 猫は人がいなくても生きていける

 猫が多い。

 それが島の第一印象だった。祖父の生家であり追い出された島は中央に豊かな樹木が青々と生えた大きな丘があり、そこから小さな港までまばらに民家が建てられている。月曜の三時過ぎという時間のせいか人は見当たらなかったが、代わりに猫の姿が目に止まった。それも一匹や二匹ではなく、視界の中だけで七匹前後はいる。島という物理的に陸が閉じた土地柄のせいだろうか。天敵もおらず、島民に飼われ、去勢もされなければ増える一方なのかも知れない。

 梓は猫どころか犬などの他の動物も飼ったことがない。今思えば父親が生家の景色を思い出すのを嫌って許さなかったのかもしれない。苦い呼び水はできるだけ遠ざけておきたい、ということだろうか。

 もう随分時間が経っているのに父はまだ拘っているのだろう。

 やはり、時間がすべての傷を癒すわけではない、ということなのか。

「なにやってるの?」

 質問というより抗議めいた声が後ろから聞こえる。振り向くと硝子が丁度、船から降りようとしていて、梓とキャリーケースを邪魔そうに眺めていた。

「ああ、ごめん」

 慌てて横に退けると、硝子が降りてくる。こうして横に並ぶと彼女は女子にしては背が高い。体つきがほっそりとしていて姿勢が良く、どことなく育ちを感じさせる品の良さも感じる。その雰囲気は父方の祖母も持っていたような気がする。

 硝子は気にした様子もなかったが、梓は自分がじっと見ていた事実になんとなく気まずくなって視線を別の方に向ける。それはちょうど今やってきた海の方向で、向こうにあるおぼろげにしか陸は見えなかった。この島は本土とはかなり離れているようでまわりに他の島も見えない。

「クローズドサークル…」

 最近読んだ本の中にミステリー小説がいくつかあったのでつい無意識に呟くと、硝子がつまらなそうに息を吐いた。

「失礼ね。そもそも島の向こう側には他の島と繋がった橋があるわよ」

 単なる連想だったのだが、冷たく言われた。こちらもつまらないことを言った自覚はあるので黙る。しかし、よく考えれば、出会った当初からずっとこの態度だ。わざわざ遠くから来た弔問客にこれはなんなのだろう。愛想がないにもほどがある。

 別段不満に思うほど、この島にも祖父の生家にも梓は思い入れも興味もないが、そんな風なことを梓は微かに疑問に思った。あるいは、島流しという単語の前ではすべて無意味な疑問となるかもしれない。

「とりあえず、あなたの泊まってもらうところに向かうわ」

 もしかすると、まだこの少女は友好的なほうなのかもしれないと淡い期待を現実逃避気味に考えながら梓は彼女の言葉に首を傾げる。

「泊まるところって、本家じゃないの?」

 てっきり祖父の生家に宿泊するのかと思っていたのだが。しかし、答えは冷ややかな視線とともに返って来た。

「うちは四人姉妹なの。そんなところに高校生の男なんて泊まるのがおかしいと思わない?」

 四人姉妹という単語自体初めて聞いたが、言いたいことはわかる。親戚--彼女が言う所では従姉妹のようなものだが、血縁的にはともかく、顔を合わせるのも初めての相手な上に互いに年頃の異性だ。おそらく硝子をはじめとした姉妹は本家での逗留を嫌がったのだろう。それを思うとますますなぜ呼んだのかという疑問というか、呆れめいたうんざりした気分がわずかに浮かんでくる。

 そもそも自分が望んだ旅ではない。

 だから、仲良くする気がないなら構わないでほしい。

 たとえ好意によるものだとしても、反応を返すことすら酷く億劫だ。

 悪意も好意も等価に面倒臭い。

「そうだね。ぼくも面識のない親戚に気を遣って滞在するのも面倒だ。とりあえず、それなりに長旅で疲れたから早く一人でゆっくりしたいところだよ」

 投げやりな言葉は皮肉交じりになってしまった。彼女は感情を伺わせない冷たい表情を返してくる。梓もいい加減歓迎されていないのは分かっていたので、無理矢理作った社交的な態度は疲れてきた。もともと、そういうのは得意ではない。できれば、何にも関わらず残りの人生を過ごしたい。

 このような悪意に近くみえる無愛想な態度を見せる相手が久しぶりだったためか、この少女と会話をしていると、消極的な後悔が募ってくる。

 どうせどこにもいけないのに、なぜこんなところに来てしまったのか。

 結局、何も変わらない。

 結局、何も変わらないのに。

 結局、何も変えられないのに。

「あなた、いつもそんなつまらなそうな目をしているの?」

 ふいに、目の前の硝子がそんな言葉をこちらに投げてくる。思わず、君こそいつも冷たい目をしているのか、と返しそうになったが軽く笑って違う言葉を選ぶ。

 害意には害意を、悪意には悪意を、なんて疲れることはもうやめた。害意にも悪意にも無関心を。相手をする価値などない。それを分からせた方がいい。

 自分を相手にする価値などない、と。

「さあ。ぼくは面白いことにも興味がないからね」

「そう。じゃあ、今から会う相手とも仲良くできそうね」

 冷たく言い捨てて硝子はさっさと歩き出してしまった。

 あの説明不足で不吉な物言いはどうにかならないのか、と気怠げに思いながら梓はその背中を追いかけた。



 硝子の目的地は丘の中腹より少し下くらいにある木々に隠れるように立つ一軒家だった。それなりに荷物が詰まったキャリーケースを引きずっていたので頂上近くになくて助かったが、立派な塀と大きな日本家屋に無理矢理継ぎ足したかのような都会的な建物を増築されたそれを見てなんとも嫌な予感がした。それなりに広い庭は荒れ放題で池は濁っており、どことなく空き家然としていたが硝子は慣れているのか気にした風もなく裏手に回った。野良なのか飼っているのかいまいち判別のつかない猫が何匹も気持ちよさそうに寝ているが、硝子と梓が近くを通っても警戒する素ぶりを見せない。

「やあ、硝子ちゃん。今日も可愛いね」

 田舎らしい気心の知れた関係からなのか、梓が思ってもなかなか言わないだろう言葉を平然と放ってきたのは着流しの男だった。随分若い。梓の上の兄と同じくらい、せいぜい二十代前半くらいにしか見えない。

 縁側で茶碗をすすっている男の気安い挨拶に硝子は軽く苛立ったような顔をした。梓に対するものよりもさらに冷ややかな目を男に向ける。

「立花さん、来ることがわかっていたのになんで迎えに来なかったの?」

 けれど、立花と呼ばれた男は気にした風もなく答える。

「車を出す気分じゃなかったんだよ。悪いけれど、うちは分家ではあるけれど本家に仕えているわけじゃないしね」

 立花は側においてあった電子煙草を口にして、ふうっと白い煙を吐く。青リンゴのような果実の匂いが漂う。しかし、それさえも鬱陶しいかのような冷たい表情で硝子は言う。

「あなたが呼んだのだから、あなたが迎えにくるのは筋でしょう」

 責めるような口調に、しかし立花は柔らかく、どこか人を食ったような笑みを返した。

「初めて会う同い年の再従兄弟同士、親交を温めてほしいと思っただけだよ。まあ、その様子じゃ、上手くいってないみたいだろうけれど」

 やはり、他人から見てもそう見えるらしい。けれど、その揶揄うような言葉を受けて早速、硝子は見切りをつけたようだった。

「そうですか。じゃあ、あとはよろしくお願いします」

 極めて事務的な言葉を吐き捨てるように口にして硝子は踵を返し、本当に来た道を戻っていってしまった。

 いきなりのやりとりに呆気にとられ、硝子の背中を呆然と見送っていた梓の耳に、遅れてくっくっくという楽しげな笑い声が聞こえた。

「いやあ、相変わらず、彼女は可愛いね。なあ、梓君、君もそう思わないかい?」

「はあ。まあ、きれいな顔をしているとは思いますが」

 よく分からず答えてから、目の前の着流しの男が自分の名前を口にしたことに気がつく。

「別段、僕は彼女をからかっているわけじゃないんだがね。いや、しかし、そういう言葉は気をつけたほうがいい」

 笑ってはいるが字面的には硝子と同じ忠告めいた言葉に、梓は眉根を寄せた。

「そういう言葉ってなんですか?」

「彼女の外見を褒めるような言葉だよ。一応、この島で一番大きな家の娘さんだからね。爺婆が言うのはいいだろうが、年の近い男が言うとなると困ったことになる」

「はあ。袋叩きにでもされるんですか?」

 立花は薄く笑った。

「そうだね。生きてこの島から出たかったら何事にも気をつけたほうがいいかもね、君は」

 意味深な物言いに、どういう意味か、訪ねてようとしたところで男はさっさと立ち上がる。

「さて、じゃあ早速、君に宿泊してもらうところに向かおうか。裏手に車が停めてあるからね」

「今日は車を出す気分ではなかったのでは?」

「さっきのは方便というやつだ。存外真面目なところがある娘だからね。責任持って君の宿泊先までついて来るかもしれなかったから怒らせてみたのさ。ほら、硝子ちゃんがいたら楽しい歓迎会ができないだろう? 大丈夫、可愛い女の子なら他にもいるから」

 楽しげな様子の立花は悪びれた様子もなく、むしろ不安になるようなことを言いながら帽子を被った。

「しかし、梓君もこんな時期にこんな僻地まで大変だね。学校とか大丈夫?」

 小さな軽自動車で、アスファルトで舗装されていない島の細い道を走りながら、立花は笑って尋ねてきた。彼の名は立花夏生というらしい。この島の渡辺家の分家筋で、一応、梓とは親戚関係にあるらしい。

 兄と個人的に連絡をとっていたのがこの立花だったと本人から聞いて梓は初めて知った。ある意味、元凶といえば元凶なのだが、従姉妹のような少女よりもはるかに取っつきやすいからか文句を言う気も起きなかった。

「はあ。まあ、まだ高校一年ですし、大丈夫じゃないですかね。一応、理科系科目と語学の教科書は持って来ましたし」

「分からないところがあったらいつでも相談してくれていいよ。まあ、僕は正直、専門以外は中高の授業とか完璧に忘れちゃったけどね。いや、専門にしたって中高と大学以降ではまったく違うと言ってもいいほど異なっているから微妙か。ほとんど連続性のない教育になんの意味があるんだろうね。まあ、ともかく勉強は硝子ちゃんか映子ちゃんに頼んだほうがいいと思うよ」

 正直色々な意味でどうでもいいのだが、それでもおそらく同学年である硝子に訊ねるのは気が進まない。そもそも一応進学校に通っているので、下手をしたら硝子のところよりもずっと内容が進んでいる可能性もある。

「ええと、映子さんって誰ですか?」

 とりあえず、新たに出てきた名前について訊ねてみた。硝子と立花という初対面の親戚二人の時点で既にお腹一杯な気分であるがそうも言っていられない。

「あれ、硝子ちゃんから聞いてない? 本家の時雄さんのところは、四人姉妹で下から銀子ちゃん、鏡子ちゃん、硝子ちゃん、映子ちゃんなのさ。小学生、中学生、高校生、大学生だ。みんな女の子だから大変だね」

 他人事のように言うが、まあ、実際、他人事なのだろう。田舎の本家と分家の関係というのを梓はよく知らないが、硝子と立花のやりとりを見る限りそれほど親しそうでもない。

「はあ。四人姉妹というのは聞いてましたが。しかし、銀子って名前少し変わってますね」

「ああ、それ本人の前では禁句ね。もともと無口な子なんだけれど、まったく喋ってくれなくなるから」

「禁句が多いですね、この島」

「うん? 硝子ちゃんに何か言われた?」

 世間話でいきなり剣呑な話題が出たかのように立花が顔をわずかにしかめた。

「祖父さんの孫だとこの島では言わないほうがいいって言われました」

「……ああ、そのことね。まあ、確かにあんまり言わない方がいいかな。袋叩きどころかその場で切腹させられるかも」

 よく分からない冗談をいう男だ。世代の違い、あるいは土地の違いなのか。愛想笑いを浮かべるべきか少し悩んだが、立花は気にした風もなくさっさと話題を変えた。

「梓君、右手に橋が見えるだろう。隣の島と繋がっている平坂橋だ」

 言われて右側に目を向けると長い橋とその先に島があった。いまいち遠近感がはっきりしないが、随分遠くにあるように見える。

「昔はともかく、今はあっちの島は過疎化が進んであまり人はいないけど、あっちもなかなかいいところだよ。時間はたっぷりあるし、今度、車で連れてってあげよう」

「はあ。それはありがたいですが、葬儀の期間中にそんなに出歩いていいんですか?」

「葬儀と言っても、いろいろ面倒なのは本家の連中だけさ。むしろ分家筋の僕でもこの時期は本家の敷地に入るのに面倒な手続きを踏まなくてならないし、君だっておそらく似たようなもの……あるいは、それ以上に面倒かもしれない」

 よくわからないが、なんだかひどく面倒であるということだけは梓も理解した。

「それでどうして、わざわざ絶縁状態なのにぼくをよんだのか……」

「君と言うより、君のお父さんを期待してと言うほうが正しいかな」

 独り言のつもりだったが、立花が拾い上げて苦笑した。

「本家……と言うより、時雄さんが君のお父さんと関係の修復を期待したのもしれない。あまり確率は高くないけれど。まあ、そうだとしても君のお父さんが直接来るのを拒否した時点で無理な気もするよね」

「父さん……父は、本当に仕事が忙しんですよ。個人事務所なんで今の時期はすごく忙しくて」

 本当はそんな義理も正直あまりないと思っているのだが、一応、弁護しておく。しかし、事実を言っているのに梓自身も誠実さがないと思っているのか、言っていてなんだか空々しい気分になってくる。言葉を重ねるごとに、意味が浮いていくような感覚がした。

 本当の所、父の心情など分かりはしない。

「ん。ああ、ごめんごめん。君のお兄さんの言葉を借りたけど、拒否というのは強い言葉すぎた」

 長兄の言葉。梓がいない場で父が長兄に語った様子が元か、あるいは、長兄の勝手なフィルターを通したものなのか判断がしづらい。そう言えば、父はどんな顔をして今回のことを自分に言っていたのだろうか。あまり覚えていない。正直、父の気持ちなどどうでもよかった。どうせ所詮、家族なんてそんなものだろう。お互いの気持ちを慮ることもできない生活の距離と血縁的に距離が近い他人だ。

 しかし、奇妙なことに隣で車を運転する血縁的に距離が近いだけの青年は気遣うように言う。

「本当に関わり合いになりたくないならそもそも無視するものだからね。本当に忙しいんだろうね」

 大人の言葉だ。義務的に、道を均すような言葉。梓は窓の外に目をやる。見慣れない景色が延々と続いている。

 きっと、すぐに見飽きるのだろう。

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