第2話 願わくば本と夜に埋もれて

 その報せが届いたのは夏休みがあけてから一週間後のことだった。

 その日、二階の自室でぼんやりと本を読んでいるとノックもなくドアが開き、妙に背の高い男が顔を出した。平均より少し整った顔のその男は梓の一番上の兄だ。通っていた大学の近くでそのまますんなり就職を決め、今は他県で一人暮らしをしているのだが、今日のような月末の土曜日は帰省してくる。

 人の部屋に勝手に入ってくる様に幾分反感と鬱陶しさを覚えたが抗議するにも億劫で、梓は本から顔を上げなかった。ずかずかと部屋に押し入った長兄は、梓が近くに積んでいる本を見て呆れた顔をした。

「なにやってんだ?」

 どことなく非難めいた響きのする声を梓は気にせず、文章を投げやりに目で追いながら言葉を返す。

「見ての通り、本を読んでる」

「ふうん。お前、受験は大丈夫なのか?」

 母親のようなことを言う。いや、母親のほうがまだマシか。煩わしいのは同じだが。

「ぼくは高校一年だ。受験生は脩兄のほう」

 去年高校受験したばかりだと言うのに、早くも大学受験の心配されても困る。本当に受験生で天王山も過ぎ、追い込み時期に入ろうとしている次兄の苦労が偲ばれる。結局最も迷惑なのは心配だと口にしながら何も理解していない人間ということだろうか。

「あと、夏休み明けのテストは二週間前に終わった。九月も残すところ数日だね」

 喋りながらページをめくる。古い本なのでページの外側は変色している。その外側以外は、まるで一度も開かれていないかのように白い。だが、いずれ外側から徐々に色が変わっていくのだろう。それはまるで時が滲んでいるかのようだと梓は思った。

 時とともにすべてが色褪せていく。

 それは悲しい事なのだろうか。

「お前、暇そうだな」

 長兄の言葉はいつも不愉快な気持ちにさせてくれる。よく年の離れた兄弟は喧嘩しないなどと聞くが、梓の場合、この兄とは年齢の開きも手伝って価値観や距離感が上手く測れない。次兄に対してほとんど感じことのない兄という存在に対する鬱陶しさを毎度強く感じる。そう簡単に切れない家族という関係は厄介だ。

 他人ならずっと、それこそ残酷なほど楽なのに。

「暇じゃないさ。それに、学生時代に無駄な会話や飲み会に費やすよりも一冊でも多く本を知った方が良い、って言う作家もいる」

 たから、さっさと目の前から消えてくれと梓は嘆息を押し殺して思うが長兄は近くに積んである本を無造作に手に取って興味なさげに表紙を眺めている。自分の本ではなく図書館のものだが、なんとなく苛立つ。そして、こんな些細なことで兄などに苛立ちを抱いている事実に苛立ちが募った。

 まるで、水の中でうまく呼吸ができないような感覚が胸を満たす。

「ふうん。俺は学生時代に友達と馬鹿話したり飲み会するのも人生のためになると思うけど」

 諭すというよりも、世間話のように長兄は言った。梓は小さく失笑する。

 知っている。

 ああ、そんなことは、知っている。

『カーテンが揺れる放課後の教室』『静かな図書館』『穏やかな風が吹く屋上』『真夜中のプール』

 鬱陶しい連想に梓は叫び出したい衝動に襲われた。無理矢理手元の本の文字列に意識を向けてそれを逸らす。薄い壁の向こうでは次兄が勉強をしているので邪魔をするのは忍びない。まだ、それくらいの配慮はできる。

「普通の学生生活も今思えば貴重だったと思うけどなあ。まあ、いいや。それならやっぱりお前に行ってもらおうか。父さんと母さんには了承を得ているし、高校一年のこの時期なら少し休む程度問題ない。忌引きもすんなり取れるだろ」

「……何の話だよ」

 なにやら不穏な単語がいくつか聞こえた気がして、初めて本から顔を上げると、神妙な顔をした兄が見下ろしていた。

「一昨日、訃報が俺のところに届いた」

 訃報。その単語があまりにも唐突すぎて最初に何を言われているのか分からなかった。とりあえず、怪訝な顔をしつつ気になったところを口にする。

「一昨日? そんな話聞いてないけど……」

 親戚はほとんどこのあたりに住んでいるので、一昨日に誰か亡くなったのだったらその報せは他県に住んでいるこの長兄ではなく、直接、母のほうに届く。

 兄は神妙な顔が続かなかったのか、どうでもよさそうないつもの表情に戻って、首を横に振った。

「いや、新橋のほうじゃない。渡辺の祖父さんの実家から来た」

 渡辺ということは父方の祖父の実家ということになるが、それはあまりにも意外な話だった。梓は少し呆けて兄を見返すが向こうが何を考えているのか相変わらずよく分からない。どうにもこの兄の心情は表情から伺いづらい。

「大学時代に研究の関係でたまたまあっちの分家筋の人と知り合ったんだ。その人経由で、本家の当主が亡くなったと聞いた」

 父方の祖父の生家とは長い間没交渉だと聞いていたので、分家筋だとか、本家の当主だとか聞いてもいまいち梓には現実感が湧いてこない。親戚の訃報ではあるが、遠い親戚など他人と同じにしか思えない。とりあえず、渡辺家の三男坊で高校生の梓には関係ないというのは分かる。

 関係なら放っておいてほしい。

 ふと窓のほうを見ると、引かれっぱなしのカーテンに橙色と緋色が混ざりあった夕日の色彩が僅かに透けていた。九月の下旬ともなると夜が少しずつ長くなってくる。もう晩夏、いや、初秋か。時間は無意義に流れていく。夏からこっち、家に籠って本を読んでばかり過ごしていたので、なんだか最近、ひどく時間の進みに鈍感になっているような気がしていた。

「俺たちから見たら大叔父らしいが……ともかく、本家から葬儀に出てほしいっていう話だ。というわけで、一番暇そうなお前に行ってもらう」

「……は?」

 とりとめのない思考に沈みかけた梓の意識がすくいあげられる。

「さっきも言ったが、母さんと父さんも同意見だ。うちの業界は今特に忙しいからな。西の方に行く時間はない」

 まるでこちらの意思も意見も考慮しない断定的な言葉に梓は戸惑う。

「ああ、あと本家だからか亡くなったのが当主だからか、二週間近く滞在することになるからな。借りた本は返しとけよ」

 葬儀に二週間など聞いたことがない。ということは、人手が足りないから手伝いにきてほしいということなのだろうか。

「お前がこっちの渡辺家の代表だ。まあ、てきとうに頑張れ」

 梓が考え込んでいるうちに長兄はぞんざいに手を振って去って行った。



 昔、父が酔ったときに聞いた話だが、梓の父方の祖父は島流しにされたらしい。

 そんな時代錯誤な、とも思ったが年号が変わる前の話だ。祖父はもともと西の方の離島の生まれで、そこの結構な金持ちの家の嫡子だったらしい。しかし、当主についてから放蕩を繰り返し、結果、家を傾けた挙句島流しにされ、梓たちが住んでいるあたりに越してきたとのことだ。

 島に住んでた人間が島流しというのは字面だけ見ればなかなかに滑稽なことに思えるが、島の本家側は真面目に血縁を追放しているし、追放された側の祖父と祖母と父も真面目に生活に困ったらしい。しかも、梓たちが今住んでいる場所に移り住んでからしばらくして祖父は亡くなったらしく、小さな息子と2人だけになった祖母は途方に暮れたことだろう。

 今でこそ、梓たちの父は一級建築士の資格をとり、同じく一級建築士の母と事務所を切り盛りしているが、酒の席で漏らされる幼少期の苦労話はなんとも苦い味が滲んでいた。

 そんな経緯のため親戚とは言え、所詮、会ったことのない大叔父である。その葬儀のために二週間も高校を休ませるわけがないと思ったが、梓は話を聞いた翌日、電車に揺られていた。

 次兄に借りた臙脂色のキャリーバックと黒いショルダーバック。葬儀ということで高校の黒いスラックスと白いワイシャツを着ている。微妙な時期なので詰襟の上着も持ってきているが、外はまだいいが効きすぎた暖房の中は辛く、電車の中では脱いでいた。

 車窓から外の景色を見やるが、見慣れない土地の田園風景はなんの感慨も浮かばない。単調な振動のせいか、眠気もあって、持ってきた本を開く気にもなれない。いや、ここで持ってきた本を消費してしまうとあとが怖い。これは補給のできない旅行なのだ。

 いや、父は旅行だと思って行ってこいと言ってきたが、旅行らしいのは長い電車での移動時間と慣れないフェリーによる短い航海くらいで、旅の目的は見知らぬ親戚の葬儀だ。一応、生家なのだから忙しくとも父が行くのが筋であるのだが、いい思い出どころか幼少期の苦い思い出の元凶を避けたいというのもあるのだろう。わりと梓も抵抗したのだが、年末進行をどうにか回避したい母によりほぼ無理矢理休みをとらされた。こちらも嫌々だと言うのに、夏休み終わってほとんど間もないのに、という嫌味を言ってきた担任には腹が立ったが何も言わなかった。教師という職業の大人には何も期待できない。

 梓はため息を吐いて、仕方なく過ぎ去っていく景色を眺めながら、どうせなら夜行列車がよかったと思った。窓の外は真っ暗闇で、ところどころに灯った明かりが過ぎていく景色。いつか映画か何かでみた情景。眠っていても本を読んでいても、立ち止まることなく他の場所に進んでいくなら夜がいい。昼間はほとんどの人がどこかに進んでいく。そうして、立ち止まっているものや普通とは違う場所に行くものに非難の目を向けるのだ。なぜ自分たちが正しいと思うのだろう。無理解な癖に不可解そうな目はどこまでも不愉快で不快だ。だが、夜ならばそんな目もない。

 寂れた駅を出ると既に太陽は天頂を過ぎていた。早朝よりも強い日差しと潮の匂いが微かに漂う慣れない空気が出迎える。乗り換え時以外は座りっぱなしで硬くなった体にうんざりしつつ、バスを乗り継いでフェリーの発着所に着くと、待合室はがらんとしていた。朝昼夕の1日に三回しか運航していないので仕方がないかもしれない。しかし、寂れた待合室をなんとはなしに見渡すと、部屋の隅に制服を着た同年代の少女がいるのが目に止まった。

 土地が違うせいなのか梓のクラスの女子とは雰囲気が随分違う。紺色のどこにでもありそうなセーラー服を特に着崩してもおらず髪も染めておらず、その表情もどこか生真面目にも見えるが、綺麗な顔立ちのせいか地味には感じない。胸元まで伸ばされた癖のない黒髪と左目の下の泣き黒子が印象的で、むしろ、一度気づくとつい目を離せなくなるような雰囲気がある。

 しかし、そんな彼女の目には、目があったときには既に睨み付けるような険のある色が現れていた。

 少しばかり見ていただけなのだが、癇に障ったのだろうかと梓が思っているうちに少女は目の前に立っていた。

「あなた、渡辺家の人?」

 あまり気の進まなそうな顔で訊ねてくる。面を食らいながらも思わず頷くと少女は、やっぱりと呟き、

「名前は?」

 と冷ややかな目を向けてくる。

 どう考えても初対面の相手に向ける目ではない。しかし、そこでようやく梓は彼女の正体になんとなく見当がついた。

「ええと、渡辺梓です。今回は父の代わりに大叔父の葬儀のため来たんだけれど……」

 一応、畏まったほうがいいと思ったのだが、向こうも学生であるし、見当がついたとは言え、そもそもどういう立場の人間なのかよく分からないので幾分砕けた話し方になってしまった。そのせいか彼女の目の剣呑さがいくらか増した気がした。彼女はしばらく気を悪くしたように黙っていたが、

「硝子」

 少女が憮然とした声でふいに口にした言葉が彼女の名前だと気づくのに少しかかった。

「硝子、渡辺硝子。一応、あなたの従姉妹みたいなものよ」

 愛想がないというのはまさに彼女のようなものを言うのだろう、と梓は思った。



 女みたいな名前。

 という感想は、今までの生きてきた十六年間結構な回数言われてきた。言われるとなんだか馬鹿にされているようで中学二年くらいまで、不機嫌な対応を返していたが最近はただ会話の中で言葉を投げただけだと思っている。ただ、口調によってはこちらのことを嫌いだとか軽く見ているだとかそういう感情が透けて見えるときがあり、ただただ不快だった。しかし、それも昔の話だ。

 祖父の故郷である離島への唯一の連絡線であるフェリーの上で、また同じことを言われ、しかし梓は戸惑った。言葉を吐いた少女の声は、嫌悪感と苛立ちがわずかに滲んでいた。

「えっと、君は高校生?」

 渡辺硝子と名乗った少女は、今回、初めて顔を合わせた梓の親戚だったのだが、極めて愛想がない。今もきっちり一人分だけスペースをあけて隣に座っているが、会話をしていてもずっと顔は前を向いている。横顔は涼やかでやはり整っているがガラスを隔てているような感覚ばかり覚えさせられる。

「そうだけど、何?」

「ええと、島には学校あるのかな?」

 年下か年上かという質問に繋げようと思っていたのだか、拒絶めいた色を察してそんな益体もない質問になった。案の定、硝子はこれほど下らないことはないという表情で、

「学校は小学校までしかないけど?」

 それが何か、という答えに梓もいい加減無駄なことのような気がして口を閉じる。ぼんやりと正面の景色を眺める。陸からはまだそれほど離れていなかった。フェリーに乗ったのはこれで初めてだが想像していたよりも進みが遅い。今日が特別なのかそれとも海はいつもそうなのか潮の匂いのする風が吹き込んで少し寒い気もした。腕の中の折りたたんだ上着を見ると詰襟の部分に校章が目に入る。梓の通う高校は県内では名の知れた進学校で、偏差値が落ちる高校の生徒などに校章を見られると微妙に気後れめいた視線を向けられる。

 高校の偏差値がすなわちその人の価値をすべて示すわけでもないのに。

 それは友人の言葉だが、梓も今はその言葉がよく分かる。そして、たとえ良い高校に入ったところで落ちぶれるものは落ちぶれるのだから、と付け足す。

 だが、そんな話もこの見知らぬ土地の海の上では意味がない。ここにはそもそも梓が通っている高校の名さえ知る者はいない。そして、梓という人間がどういう人物か知る者もいない。夜を歩いているような気分だ。

「あなたが本家に出るのは三日後と八日後」

 ふいに隣の少女が口にした独り言のような唐突な言葉が、自分に向けられたものと気づくまで少しかかった。相変わらず、前を向いたままの親戚の少女に梓は挨拶に困った。この少女に比べればまだ自分の方が社交的だろう。

「葬儀を二日間に分けてするの? もう通夜とかは終わったんだろ?」

 何がそんなに気に入らないのか硝子は億劫そうに答える。

「うちでは、通夜はしない。交通の便が悪いから、本土よりも少し独特なのよ」

 そんなことも知らないのかと言外に言っているような声音だった。島流しにされた元当主の孫にそんなことを期待するのが間違っている。しかしながら、こちらの不満と言うか戸惑いめいたものを無視して彼女は言葉を続ける。

「葬儀には出席してもらうけど、親族席じゃないから。特に弔辞も必要ない」

「はあ。まあ、弔辞を読めとか言われても困るけれど。ほとんどなんの準備もしてないし」

 言われてみればそういう可能性もあったので安堵したが、硝子は初めてこちらに顔を向ける。

「あなた、何しにきたの?」

 微かに険のある怪訝そうな顔にいっそ笑いそうになったが、多分そういう反応をすると口をきいてもらえなくなりそうだったので小さく肩を竦める。

「島流しにされた祖父さんの弟さんが亡くなったんで、忙しい親の代わりに祖父さんの生家で葬儀に出るためにきた」

「なにそれ、何も聞いてないの?」

「親とか大人っていうのは大体言葉が足りないものだろ」

 どうでもよさそうに言うと、硝子は形の良い眉を少し歪めた。しかし、それも一瞬のことで、顔を正面に戻した。

「まあ、本家に出るのは三日後と八日後だから別に問題ないわね」

「ふうん。ところで、島には図書館とかある?」

「……図書館で何をするの?」

 図書館で本を読んでいても絵になりそうな外見をしている割に、いかにも下らないとでも言うような口調。

「本を借りたいんだよ。手持ちの本じゃ心許なくて。図書館がなくても、小学校があるなら、図書室くらいあるだろう」

「小学校に図書館はあるけれど、部外者は無理よ」

 部外者。

 小学校にとっても、島にとっても梓は部外者だ。いや、もしかすると、島の渡辺家にとっても部外者なのかもしれない。

「ふうん。まあ、無理には頼まないけれど。しかし、そうなると暇だな。島には何か暇潰せる場所とかないかな」

 正直、興味はまったくなくとも最低限の案内を頼みたいところだったが隣の少女が引き受けてくるとは思えない。そもそも一応は喪中だ。血縁的には近しいとは言え、遠戚どころかほぼほぼ絶縁状態だった梓とは立場も心情も異なる。

「そんな場所ないけど。そもそも観光名所でもないのよ。高校にあがったら休日はみんな本島にずっといるくらいだから」

 硝子はそう言ってから一拍置いて、再び口を開く。

「でも、一つ忠告しておくけれど、島ではあまり出歩かない方がいいわよ。それと、自分の素性を口にするのもやめたほうがいい」

 忠告などと同年代の女子から聞くのが珍しい単語に戸惑う梓に、硝子は静かに顔を向ける。

「あなたのお祖父さんを今でも恨んでいる人は多いから」

 それは冗談を言っているような表情ではなかった。綺麗な少女の顔はその目が冷たいほど刃物のような切れ味がすると梓は初めて知った。

 しかし、放蕩により家を傾けて島流しにされた、ということしか知らないが、忠告を受けるほどとなると少し不安になってきた。

 外を見ると、いつの間にか陸は随分小さく、遠くに見えた。

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