アウトランドスの猫

茨木夕樹

第1話 旅と夜空を見ることは似ている

 音が聞こえた。

 繊細で儚い音に瞼を開く。淡い明るさに目を眇めながら少しだけ視界を上に向けると青銅色の風鈴が見えた。金属製の風鈴の音色は硝子のそれより硬質で冷たい。わずかに頭がぼんやりしていたが机の上に読みかけの文庫が置かれているのをみとめて、自分がまた本を読んでいる途中で寝てしまったことに気付く。

 こうして布団以外の場所で目覚めるとき、いつも眠りというものに恐ろしさを覚える。眠りから目覚めてすぐ眠る前の自分と上手く繋がらないとまるで自分は死んでいたのではないか、と思ってしまう。錯覚、あるいはクローゼットの怪物のような子供じみた想像の恐怖みたいなものだろう。怪物や死を怖がるのは子供だ。大人であれば、現実に怪物などおらず、死は現実にありふれていると理解している。怖がる道理はない。

 とは言え、自分だってそんなこと知っている。あるいは意識がある、ということを生きていると無意識に定義しているのだろうか。だから、眠っている間は死んでいるようなものだと思っているのかもしれない。

 そんな益体もないことを考えていると、涼やかな風が頬を撫でた。視界の端で黄色と紅色の葉が揺れる姿につられてぼんやりと庭先に目を向ける。青々とした葉を生やす木々と紅葉したカエデが混じる景色は秋のそれだった。日差しもちょうど暖かいくらいで、背中に柔らかい感触を返す西洋椅子も相まって、眠ってしまっても仕方ないことのように思えた。

「兄さん、また眠っていたんですか?」

 クスクスと耳に心地よい少女の声が聞こえて声の方を向くと、綺麗な黒髪の女の子が母屋に通じる戸口の前に立っていた。急須と湯呑みが置かれた盆を運び、危なげなく梓の向かいに座ってお茶を勧めてくる。

「鏡子ちゃん、兄さんという呼び方はいい加減やめてほしいのだけれど。ぼくらは別に兄妹じゃないだろう」

 一口飲んでから梓はやんわりと抗議した。鏡子と梓が兄妹ではないことは、きっとここでは小学生ですら知っていることなのだろうが、人前で呼ばれる度に居心地の悪い思いをしていた。この感覚はきっと多感な高校一年生の自意識過剰とかではなく、純然たる事実に違いない。なにせ、それだけの理由がある。あるいは、負い目と言うべきか。

 しかし、そんな梓の思いを知ってか知らずか、鏡子は幼さを多分に残しながら線の儚い整った顔に楽しげな笑みを浮かべた。

「なら、お兄様のほうがいいですか?」

「……妹さんや硝子さんはぼくのことをなんて呼んでるの?」

 数十人も同世代の人間が押し込められた空間で息を殺すように本ばかり読んでいた梓と違って、鏡子はとても社交的で聡いので勝てる気がしない。仕方なく、そんな風に彼女の姉妹について話を振ってみると、鏡子は困った顔をした。だが、上手く誤摩化す方法は浮かばなかったようで、

「硝子姉さんはろくでなしとかあれとか読んでますね。銀子はあの人とかそんな感じですかね」

 予想よりも酷い言葉が返ってきて、梓はため息を漏らした。何か嫌われるようなことをした覚えはないのだが。そんな梓の姿があまりにも哀れだったのか、鏡子は少し慌てたように補足する。

「ああ、でも、映子姉さんには何が好物か聞いてきてほしいと言われましたよ。うちは女ばかりの兄弟なので弟ができたようで嬉しいのかもしれません。最初は名前を見ててっきり従妹だと思っていたみたいですから余計に嬉しかったのかも」

 梓の方はあまり嬉しくはないのだが、わざわざ手料理を作って届けてくれる映子の厚意を否定するようなことは言いたくないので曖昧な笑みを浮かべて誤摩化す。なんだか最近、と言うか、ここに来てから随分こういう笑みや愛想笑いが上手くなった気がする。それはいいことなのか悪いことなのか。

『水たまりのできた校庭』『カーテンがゆれる放課後の教室』『描きかけのキャンバス』『薄暗い図書館の隅』

 ふいにそんな光景が目に浮かんだ。人間の頭と言うのは不便だ。上手く制御することができない。それとも梓の頭が不出来なのか。最初から欠陥だったのならばまだ救いはある。

「やっぱり旅は疲れましたか?」

 自分は一体どんな顔をしていたのか。鏡子が少しだけ心配そうにこちらを覗き込んでいた。表には出していないつもりだった、と言うよりも、何も感じてなどいないつもりだったので逆に驚く。

「え。いや、別に。フェリーを入れてもせいぜい半日程度だから疲れるわけないだろう」

「そうですか? こうしてここで本を読んでいる途中で眠ってしまっていることも多いみたいですし、元気もあまりないように見えます」

 その指摘に思わず笑ってしまった。

「実家のほうでも本を読んでいる途中で寝落ちすることは多いよ。眠たい頭で無理に読んでいるせいかな。文章をきちんと順番に目で追っているのに、話が自分の中で上手く繋がらない時もあるし」

 読書だったら問題はないが、これが日常生活まで同じなのだから少し困る。とは言え、それも最近は慣れた。三回しかない高校生の夏休みを一つ消費して得た経験がそれだけとはなんて下らない。

 だが、正しく夏休みを過ごすとして、それは一体どういうものなのか。本と文章に埋もれている間にもう随分と薄れてしまった記憶を慎重に辿って、同級生たちの会話を思い出そうとするが慎重さという名の臆病さ故か、どこにも辿り着かず梓は早々と諦める。かわりに目の前の少女にその問いを投げた。

「正しい夏、ですか? うーん、どうでしょう。わたしはやっぱり旅をすることですかね」

「旅?」

 存外、普通の答えだ。いや、中学生くらいの年齢の少女からすれば普通ではない気がする。とは言え、梓は中学生の少女どころか高校の同級生の女子ですらあまり話したことがないので普通自体があまりに分からない。

「意外ではないと思いますよ。だって、こんな島にずっといるんですもん。旅に出たくなるときもありますよ」

 鏡子の声にはわずかに不満めいたものが滲んでいた。それを見て梓はなるほどと、異分子でしかない自分にこの朗らかで綺麗な少女が会いにくる理由に思い至る。好奇心は猫を殺すが、退屈は人を殺す。

「旅か。たいしていいものじゃないよ」

 そう口にしてから、自分にとってはまさにここにいる今が旅の途上であることに気付いて、仕方なく言葉を重ねるため口を開く。ゆるやかな風が流れて、風鈴の音が聞こえた。

「見たことがないものを見て、知らない人に会っても、それは結局、夜空の星を見るのと同じだ。別のところにいけば自分が変われるわけでもなく、どこにいても自分は自分でしかない」

 口に出してみると、多分に感傷的で分かり難い言葉が零れた。けれど、硝子の円卓の向こうに座る少女は湯呑みから立ち上る白い蒸気にほうっと一息かけて微笑む。

「夜空の星を見る、ですか。兄さんは星に何を願います?」

「さて。うちの近くは明かりが強いのか空気がきれいじゃないのか、星がよく見えない」

 そもそも梓は最近夜空を見上げた記憶がない。夜に起きている時間ばかりながい癖に、カーテンを閉めた部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたせいだ。住み慣れた六畳半の狭い実家の自室が懐かしい。けれど、この旅の途中の今、戻りたいという思いがあるかどうかすらよく分からない。

「そうなんですか。なら、明日は日曜ですし、今夜あたり硝子姉さんと三人で星空でも見ましょうか。ここはすごく星がよく見えますよ」

「硝子さんねえ」

「銀子のほうがいいですか?」

 からかうような言葉に、梓は苦笑した。

「あの子もそうだけど硝子さんはわざわざ来るかな?」

「そりゃあもう。わたしが夜に兄さんと二人きりと聞いたら断ってもついてきますよ」

 軽い苦笑が重い苦笑に変わるのを感じる。過保護な姉というのは微笑ましいが、警戒対象が自分となると他人事の視点ではいられない。その懸念と警戒めいた敵意が明白に杞憂であることが分かっている分、苦笑が深まる。

「心配なんてすることないのに。この島で誰かを傷つけたらきっとぼくは生きてここから出られないだろうに」

 深く考えての言葉ではなく、ある種ここに来てからの常識的とでも言うべき前提的な認識だったのだが、口にしてみるとひどく奇妙な状況だ。最初から一番上の兄が言うような気楽なバカンス気分ではなかったが、改めて考えるとまるで独裁国家にやってきた異邦人だ。おおまかにしかルールが分からないから、こうしてあてがわれた小さな家の敷地内で大人しくしているしかない。

 そのことを分かっているのか分かっていないのか、それともどうでもいいと思っているのか鏡子は星を見るように笑う。

「兄さんがずっとここにいてくれるのなら、わたしは嬉しいですよ」

「それはありがとう。硝子さんや妹さんもそう思ってくれたら嬉しいね」

 そんな言葉に鏡子は軽く小首を傾げた。

「兄さんは銀子のことを名前で呼ばないんですね」

「以前、名前で呼んだら睨まれたからね」

 小学四年生の女の子を怖がる男子高校生というものほど情けないものはない。だが、どこにも行けない相手とどこにも行きようのない自分がこれほど合わないということはある意味、理にかなっている。

「でも、姉の贔屓目を差し引いても銀子は可愛いと思いますよ」

「見た目が可愛くても頭を撫でさせてくれるとは限らないよ」

「それは怯えているからですよ。兄さんは全然怖くないのに不思議です」

 それはきみが猫のように恐れ知らずだから、とはなかなか言えない。梓は曖昧な笑みを浮かべてから言う。

「人は知らないものを恐れる。知るということは多くのことが変わってしまうことだからね。強い言葉を使うなら、今までの自分の世界を壊すことと言ってもいい。自分の世界を愛しているなら、人は何も知るべきではないんだ」

 自分のことながらペシミストかニヒリストめいた言葉に苦笑しか出てこない。しかし、鏡子は柔らかく微笑む。

「でも、兄さんは本を読みますし、こうして旅をして、わたしと話をしていますよ」

 その指摘は梓の総身に重たくのしかかる。自分の意志ではないといくら口にしてみたところで、本を読むことも旅をすることもここに座っていることもすべて自分が選んだことだ。

「ああ、そう言えば、今度の水曜日に人が来るそうですよ」

 思考に沈みそうだった意識が、鏡子の言葉ですくいあげられる。

「このタイミングってことは大叔父さんの弔問客かな。親戚?」

「たぶん違うと思います。本州にいる親戚は兄さんのところだけと聞いてます。苗字も渡辺ではないですし」

「ふうん。どんな人なの?」

 異邦人が増えるのは梓にとって悪いことではない。味方と決まっているわけでもないが。

 問いに対して、鏡子は少し困った顔をしていた。

「それが父さんの冗談なのか、陰陽師らしいのです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る