彼岸の女

@tikafu

短編

ざざぁんと波の音がする。

その波打ち際にぽつねんと女が一人立っている。美しい女だ。

夜が明ける前の暗闇の中に女の白い肌だけがぼんやりと輝いている。

その姿に見惚れているとふと女がこちらを見た。そしてうっそりと笑った。

「お兄さん、こんな朝っぱらから海なんて、入水でもするつもり」

唐突に言われて少し面食らう。正面から見ても女は美しい。

「少し歩きません」

つと女が踵を返してぱしゃぱしゃと水を蹴りながら向こうへと遠ざかっていく。

女から誘われたのに一拍おいて気がついて、急いで追いかける。

「今日は主人の月命日なんで、お花とお線香をあげにきたんですよ」

女は一人で淡々と喋る。

「海で死んだの。18のときに嫁いだわ。静かだけど優しい人で、たまにお金が入ると甘いものを買ってくれましたっけ。ふふ、子ども扱い。実は甘いものなんかあんまし好きじゃなかったんです。でも、あの人がくれたから、いつも戸棚の奥にしまって、ときどき取り出して見るんです。きらきら、きらきらした飴玉。綺麗だったわ。主人には勿体無いから早く食べろと叱られてしまって。ふふふふふ」

幸せそうな、でもどこか遠くを見るような笑みで女は喋る。

「でも、いつからか主人は家に帰ることが少なくなって、でもお金はどんどん増えて、飴玉じゃなくて綺麗な着物だとか立派なお宅なんかをもらって、でもあたし、飴玉のほうがよっぽど嬉しかった。」

女の瞳からぼうっと光が失われていく、そんな表情でも女は美しい。

「最後に主人を見たのは海でした。あたし、綺麗な着物も、立派なお宅も、何失ったって辛くなんかなかったんです。ただ、主人とあの飴玉があればじゅうぶん、幸せだったんです。でも、主人はそれだけじゃ幸せじゃなかったんですかね、海に沈んで逝ってしまって。さみしくて、さみしくて。あたしより、お金のほうが主人を幸せにしてくれてたんだと思うと。」

女の瞳から涙が一筋ながれた。それは朝日を浴びてきらきらと光っている。

「でもね、もっともっとさみしかったのは、あたし、もう、主人の顔も、声も、感触も、思い出せないの。今日だって、月命日ってこと、ほんとは忘れかけてたの。人は、二度死ぬのよ。最初は、肉体が死んだとき、次は、人から忘れられたとき。あたしのなかから主人がどんどん死んでいくの。それがさみしくてさみしくてたまらないの。」

後光のような眩しい朝日を背に、女は涙を流しながら、笑う。それはそれは、この世のものではないと思うほど美しかった。

「だからね、あたし、あたしのなかから主人が死んでしまうまえにいっしょに、死んでしまおうと思うの。」

女は笑顔のまま、海へと吸い寄せられるように入っていく。

「でも、あたし欲張りだから、あたしを忘れないで、誰かの心のなかにずっと、ずぅっと、生き続けていたいの。だから、」

女は肩まで海に浸かると、こちらをむいて不気味なほど美しい笑みでこう言った。

「あなたの心のなかで、あたしをずぅっと生きさしてね」

そう言うと女は海へと消えていった。





昭和〇〇年△月□日 ××新聞 朝刊


〇□海岸にて女性、入水自殺か

今朝未明、〇□海岸において女性が入水自殺。警察は近隣に住む女性とみて身元調査を進めている。また、女性が入水自殺したと見られる付近には男性が座っており、こちらも身元調査中だという。この男性は取調に対し『あの女は美しかった、彼岸の住人だ。美しかったひどく美しかった…』などと述べており、自殺に関与した可能性もあるとみて今後調査を続けていくという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼岸の女 @tikafu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ