あさとかかとか

 腕をくすぐる生温かい感触に芹奈せりなは覚める。手首の少し下あたりだった。室内に籠もるむっとした空気に目覚めをためらった。

「なんで準備してる」

 芹奈の不服な声にスクが顔を上げた。

「おはようございます」

「…………おはよ」

 スクは芹奈の問いを意に介した風もない。目の大きい、あどけなく快活そうな顔が、再び長い黒髪の陰に隠れる。

「だからなんで……」

 肌を舌先になぶられながら芹奈はため息をつく。スクは時として、話を通すのに多少の手続きや時間や辛抱を要求する。しかし芹奈もそれは承知していたから、先のため息には甘さが色濃かった。理解と、それゆえの諦めからくる甘さだった。

 カーテンは開かれていて、抜けるような青空が窓の上端を塗りつぶしていた。なだれ込んでくる光が芹奈の目には疎ましい。

「お腹が空いてしまったので」

 不意にスクが首を起こし答えた。回線悪いみたいだな、と芹奈は考えるのとは別に感じる。

「でも今、朝だし」

「朝はお腹が空きませんか?」

「空いてるときもある」

「私の今がそれです」

「でもあたし今、寝起き」

「朦朧としてるうちに終わりますよ」

「違う。血圧低い」

「でも芹奈さん、いつも食べられてるとき脈速くなってません?」

 がば、と芹奈は半身を起こす。

「バカタレ。ばかやろう。あーキレそう」

 あぐらをかいて背中を丸め、芹奈は頭を抱えるように縮こまる。タオルケットが右膝にわずかに引っかかっていた。

「キレそうってことは血圧上がってるってことですよね」

「うっさい。大体あんたいつも夜でしょ。なんで今……」

「今が朝だからです」

 芹奈はスマートフォンを開く。セットしたアラームの二十分前だった。寝起きのまぶたをしばたたかせたあと、芹奈はまた甘い息を吐いた。それから膝にかかるタオルケットを脇に放り、もぞもぞとベッドに腰掛けた。

「はい」

 左の腕を差し出すと、スクは貴重品を扱うかのように手首を握る。片手で芹奈の手首を包みながら、もう一方の手の指先を、芹奈の左腕全体に滑らせる。肘から手の甲に至るまでがさながら愛撫される。その滑らかな感触の滑りを受けながら、料理人が肉を麺棒で叩いたり、蛸に塩をまぶしてぬめりを取る様を芹奈は想起する。

 スクの舌は煌々こうこうと照るような舌だった。今度は舌先ではない、広く湿った舌の面が、肌にべっとりと触れた。それからつばきを奥まで染み込ませるかのようにじっとりと押しつけた。微細な舌の動きが芹奈の体にくすぐったい。

 芹奈は手すきの右手を伸ばし、スクの長髪を耳にかけた。よく見えるようになったスクの顔は、こちらを流し目で捉えると、にっといたずらっぽく笑んだ。ほとんど挑発的な表情だったが、すぐにスクは芹奈の左腕へと戻る。芹奈ばかり目眩がしそうである。自分に半ば呆れつつ、熱く荒らぎそうな息を芹奈は殺す。

 スクが小指を芹奈の腕に沿わせた。そのあえかな指の先には、刃物のように鋭利な爪が伸びている。短く切り揃えられた他の爪とは異なり、スクの小指にはそのための機能があった。

「切りますよ」

 スクは爪を寝かせて腕へと当てながら、軽く肌に力を加えた。スクの確認の眼差しに、芹奈は無言でうなずく。スクは爪を立て、ぷつりと肌を破ると、糸を切るようにすっと横に引いた。体の中心から末端へと走る血管に対して垂直な切込みだった。スクが入念に唾液を仕込んだおかげで痛みはない。ぷつ、と血の珠が溢れ出た。スクは人差し指と中指とを口に入れてねぶると、そのビーズみたいなひとつを中指ですくった。血の珠は潰れてしまうことなく指先に乗っている。スクは慣れた手際で芹奈の小さな傷を人差し指でなぞると、再び傷口を舌の面で押さえつけた。

「やっぱりどきどきしてますよね」

 傷を塞ぎ終わってなお芹奈の手首を握っていたスクが、ふと顔を芹那に向けて言った。

「いいから。早く食べて。薬塗りたい」

 軽く笑ってスクは指先を舌でつついた。芹那の血がスクの舌に取り込まれて口の中へ消える。

「良い血」

「あたし以外の血知らんでしょ」

「だから良いんです」

「なぜに?」

「私の知ってる血は芹那さんが唯一ってことは、つまり芹那さんが教えてくれたんですから、そこも含めてってことなんです」

 時にスクは中々意味の取りづらい言い方をする。まだ慣れていないのかもしれない。それでも言いたいことはなんとなく伝わるから、芹那はスクの頭に手を伸ばした。形のよく小さなスクの頭は、ぬくもりをこんこんと手のひらへ伝えてくる。

 痒くなる前にと芹那は薬を手に取った。なんのことはない市販の塗布薬だが、それだけによく効く。

 クリームを傷口に塗りながら芹奈は自身の腕を見つめる。スクの作業は正確だ。今日の傷口の上方には、昨日と一昨日との線が薄らぎつつもきっちり平行に刻まれている。既に癒えて見えなくなった線もまた、芹奈の両腕にはいくつとなく埋もれている。それらスクとの履歴を見つめながら、自分の体が一切苦痛なく破られる様や、そこからこぼれた些細な血が少女の口に含まれる様を、芹奈は回顧する。――スクはそれを『芹奈を食べる』と言う。体の芯がじっとりした昂りに震えるようで、芹奈は目を閉じる。今は朝、朝っぱら、と芹奈はまぶたの裏で三回唱えた。

「大丈夫ですか?」

 スクの声に目を開くと、わずかにおろおろとした気色が見て取れた。芹奈は何事かと思ったもののすぐに笑ってしまう。

「大丈夫。そんなんじゃない。ちょっと考え事してただけ」

「そうですか」

「具合悪いと思って心配してくれたわけ?」

「何のこと考えてたんですか?」

「スクのこと。思い出してた」

「思い……? 私は今ここにいますよ」

「そうだね」

 芹奈は立ち上がって伸びをする。はー、と溜まった息を吐き出してスクを見下ろした。そのまま左手をぽんとスクの頭に置く。

「ま、たまにはいいかもね。朝に食われるってのも」

「私の理想は一日三食なのですが」

「理想は遠いから理想なの」

 あっつー、とうんざりしたため息をつきながら芹奈は台所へ向かう。その後ろをスクが特に何の用もなくくっついていった。

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