ジングル・ベル

 先輩はここのところうっかりしている。

 先輩は大学のサークルの先輩で、春に知り合って以来何かと目をかけてもらっている。僕たちのサークルは文化系だったけれど、先輩の体格は下手な体育会系の人間よりがっしりしていた。一方、その重量級な見た目とは裏腹に、先輩のノリは軽快で、誰からしても取っつきやすい人だった。だから先輩がうっかりしているというのは、先輩の性格とマッチしているところがあった。本人も度々自分のミスをネタにしてウケを取っている。

 それにしてもうっかりしている。

 ボタンのかけ違いとか、かばんを忘れてくるというのはもはや基本パターンだ。そこに飲み物や講義資料やサークルの物品といった小道具が加わると、先輩は実に彩り豊かなミスを披露してくれた。僕はそれを見聞きしてはサークルメンバーと一緒に笑っていたけど、先輩はこれで大丈夫かという空気も少しずつ混じってきた。

「先輩、一回本当に病院とか、行った方がいいんじゃないですかね」

 先輩と二人になったとき、僕は言った。本心からの言葉だったけど、同時に失礼なようにも聞こえて口が淀んだ。先輩は無精髭のちらつく顎をつまんで唸った。

「もうすぐ夏休みだし……まぁ……良い機会なのかもねぇ」

 大丈夫大丈夫。いつもの調子でそう言わないあたり、先輩も思うところはあったらしい。

 

「今日あっちいよなぁ」

「暑すぎます」

「アイス買って食ってく?」

「名案です」

 大学近くのコンビニでたまたま先輩と出会った。僕は期末レポートを出しに来た帰りで、先輩は研究室での用事を済ませたところらしかった。

 僕はソーダ味の四角いアイスキャンディーを掴んだ。先輩はクッキー&クリームのアイスバーを選んだ。若干目移りしたが初志貫徹する。先輩の後ろについてレジに並ぶと、先輩のジャケットの首のところに、短いタグがついていた。先輩がこちらを振り返って、僕の視線にぎょっとした。

「なに? そんな見ちゃって」

「先輩、服、裏表逆では」

「んん? うぇっ」

 先輩はそのとき気づいたらしく、他人事みたいに笑った。さすがに僕も笑った。

「やっちまったなぁ」

「それで研究室行ったんですか」

「でも誰もなんも言わないからさぁ」

「お次のお客様お伺いいたします」

「あれ気づいてて言わないってこと?」

「レジ呼ばれてますよ」

「ん? おおう」

 先輩は一度アイスを取り落としてからレジに向かった。笑っていいのか分からなくなる。

 僕たちは会計を済ませ、コンビニの軒先でアイスの封を開けた。冷房の効いた店内から出るとむわっとした熱気が体を包んだ。暑気の中にアイスの冷気が冴える。

「先輩はもうエアコンとか点けてるんですか」

「我慢すべきとは思うんだけどねー。でもこんな暑いと倒れかねない」

「それはそうです」

「熱中症はねぇ、怖いからね」

「電気代節約しようとして、それで熱中症なってもお金は取られますからね」

「エアコンはいいね。涼しいし死なずに済むし、ジングルベルもいい」

「ジングルベル?」

 反射的に繰り返した。いかにも自然そうに混じっていたけど、さすがに気がつく。

「ジングルベルってなんですか?」

「ジングルベル……」

「今夏だし……エアコンの話……」

 言葉に詰まった。おかしなところがありすぎて数えきれない。

「ジングルベル?」

 先輩はもう僕を見てはいなかった。駐車場のアスファルトに目を落として、この一瞬でひどく衰弱してしまったようだった。角張った横顔が血の気も感じられないぐらい青ざめていた。

「あの……大丈夫ですか?」

「違うんだよ」

 声はのっけから震えていた。

「ジングルベルって……なんだ……」

 自分でも分からないことを言ったんですか。そう言いかけて喉の奥に押し戻した。茶化すつもりはさらさらないのに、そうと聞こえない。

「違うんだ」

 先輩は今度ははっきりした口調で言った。違うということにしようとしている言い方だった。

「違うんだよ……」

 かと思えば今度は消え入りそうに弱々しい。

「俺は……なんと言うかな……」

 僕は身動きひとつできず、視線がふらついて、自分のアイスに留まった。雫が青い肌を流れていた。

「だんだん……違うところにいるんだ……」

「違うところ」

「住んでいるところが……違う……俺の世界が違う場所になってきている…………」

 さっと血の気が引いて、言い様のない恐怖を先輩から感じた。先輩が怖いのではない。それは死にかけた虫を見るのと同じ怖さだ。ひっくり返って足をもぞもぞ動かし、背中で地面を這い回っているのを見る怖さだ。

「大丈夫ですよ……」

 すかすかと情けない声だった。聞いている側が不安になるような声だったが、僕は続けた。

「先輩はここにいますよ…………」

 しかし先輩はこちらに視線をやることもなければ、顔に血の色が戻ることもなかった。先輩の指には溶けたアイスのクリームが垂れかかっていた。黒い粉混じりのクリームは、だんだん肌に染みていくように指の付け根へと流れていく。ふと僕は、先輩が今日もボタンをかけ違えていることに気づいた。ボタンのかけ違えだ、と僕は直感した。

 ボタンのかけ違い?

 僕はそのことを考え出すと、空恐ろしくなってたまらなくなった。先輩は動かない。蝉の声、夏の日差し、半袖、アイスクリーム。

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