BITTER BITE
「君の歯が生え変わろうとしているようなものなんだよ。君は何も手に入れはしないし、失いもしない。ただ君の中に眠っているものが表に出てくるだけなんだよ。もちろんこれはたとえ話だけれど」
竜は僕を見下ろしてそう語りかけた。
「じゃあ、僕のその、子どもの歯みたいなものはどこにいくんですか? これもたとえ話みたいなもんなんですが」
「どこにもいかない。失われはしないよ。君が失くしさえしなければ」
こんな非常事態だというのに、竜はあまりにどっしりと構えて落ち着いていた。その竜はタツノオトシゴが地面から生えてるみたいな姿をしていて、馬鹿でかい上に全身真っ黒と来たものだから、高い建物の軒並み崩壊したこの街では目立つ事この上ない。格好の標的に違いないし、その根本にいる僕も危なかった。
「えー、じゃあですね、僕が失うものはないということですか?」
「そういうことだよ。君が失くしさえしなければ」
竜はさっきとまったく同じ口調で繰り返した。機械の自動音声案内と話してるみたいな気分になる。
「じゃあやるしかなくないですか?」
「やらないこともできる。やることもできる。やらないとどうなるか、やるとどうなるか。よく考えてみるといいね」
「じゃあやるしかなくないですか?」
「やらないこともできるけど、やった方がいいだろうね」
そう言って竜は首を曲げた。なにぶんあまりに巨大なので、身をかがめるだけでも空気が震えて、大地がぐらぐら揺らぎだす。世界が終わるんじゃないかって気持ちになる。実際半分ぐらい終わりかけてるんだろうけど、とどめが刺されるんじゃないかと心配になる。
「やるとしたら? お手続き的なものは……」
「私の鱗をかじりなさい」
「鱗ですか」
「私の背中にたくさんあるよ」
僕は竜の背後に回ろうと小走りに駆け出した。とにかく段違いに巨大なので裏に回った頃には息が上がっていた。そうして龍の背中に回り込むと、確かに鱗らしきものがそこにあった。でもそれは鱗という感じが全然なかった。なぜなら鱗も格別巨大だったからだ。それはもう一枚の鱗が一軒家と背比べできるぐらいだ。
「これをかじるですか」
「君はこれをかじるのだよ」
「かじるですか……」
僕は鱗に近づいた。そばで見上げると断崖みたいだ。とにかくかじるべきものではない。どちらかというと舐めるべきものだ。それで僕は鱗を舐めた。ビターチョコの味がした。
「舐めるんじゃない。かじるのだよ」
竜に言われて、僕はなんとか鱗に歯を立てようと試みた。しかし鱗は壁みたいになっているから、かじりつこうにもやりにくい。
「どこかひびの入ったところはないかい」
そうは言われても眼前にそびえるのは山より高い竜の体だ。そこからひび割れを見つけるとなると途方に暮れてしまう。
「待っていたまえ」
竜の言葉とともにぱきりという音が響いた。板チョコをへし折ったみたいな軽い音だった。鱗の音のした部分を見てみると、そこには大きな亀裂が走っていた。
「これはこれは身を削って頂きまして」
「私は割っただけさ。削るのは君の役目だ」
僕は亀裂に爪を引っかけ、ジグソーパズルのピースを外すみたいに鱗の欠片を取り出した。欠片はシックでダークで豊富なカカオ分と高濃度のポリフェノールを含んでいそうな色合いをしていた。僕はそいつにかじりつく。ほのかな甘みが舌に触れ、落ち着いた苦味が広がった後、酸味が静かに顔を出してきた。つまるところビターチョコの味がした。
「よく噛んで食べることだ。よく噛むのは歯に良い。それは君にとっても良いことだ」
鱗がビターチョコと違うところは、口の中で自然に溶ける気配がないところだ。だから僕はそれを何度も上下の歯で砕かなくてはならなかった。固い。アクリル板のチョコ味ってこんな感じかもしれない。でも少しずつ壊しやすくなってくる。顎が軽くなって力が上手く出せるようになってくる。
「さぁ。君はもうやれるはずだよ。適当なところで終わらせて、いくんだ」
「はあ」
僕は黒煙立ち上る街の中心部へと駆け出した。体が軽い。まるで生まれ変わったかのように軽い。だけれど僕の気持ちは依然として釈然としなかった。もし僕が本当に生まれ変わったとして、それじゃあ生まれ変わる前の僕はどこにいってしまったのか? 消えて失せてしまったんだろうか? 失くしさえしなければ失わないものを、僕はとっくに紛失してしまった。喪失感はたくましかったけれど、そのおかげで体は軽快そのものだ。
やがて僕は目的の場所にたどり着く。廃墟と化した駅前に陣取っていたのは、兵器とも怪物ともつかない軽自動車大のナニカだった。全体的なフォルムはクラゲみたいで、傘にあたる部分からはウニのようにたくさんの突起が伸びている。外装なんだか外殻なんだか知らないが表面は金属質なグレーで、さらにコケのような緑色が全体にこびりついている。そいつがクモのように練り歩いて、時折抜けるような音とともに突起から弾を撃ち出した。その弾がまだ辛うじて残っていたビルに当たると、爆音と爆煙を立てて大きなクレーターを穿った。まるで破壊の化身だ。物を壊す以外することがないのだ。暇な奴だ。
などと考えていると、銃口の黒い穴と目が合う。
ほんとに他にすることがないのか。
そしてそいつはビルを砕く砲弾を、僕というたった一匹の人間へと発射した。
鉛色をした握り拳大の砲弾。空気を突き抜け空間を破り、まっすぐと僕へ向かってくる。弾はおよそ三十メートルほどの距離を一瞬にして詰める。兵器にしては至近距離だし僕を殺すにはオーバーだ。相手はなんの迷いもためらいもなく、そして一切の慈悲さえもなく、その弾丸を僕へ放った。それは無比にして無二というものだ。一切を考慮しても唯一で、合切に遠慮しても優越している。有利は向こうにあり、それを処理するのは僕にはどうしたって無理な話だ。
――なんてのは冗長だ。
それほどまでにその弾丸は冗長だった。
まぁ一瞬の出来事ではあったのだろう。でも今の僕には一瞬なんて悠長だ。
僕は口を顎の可動域限界まで開かせる。そしてタイミングを計り、
弾に食らいつく。
超絶強力不思議物質と化した僕の歯は破壊兵器と互角にやり合う。直進しようと突進する弾を、僕の顎が文字通り食い止めにかかる。もちろんこれに負けたら酷い目に遭うどころじゃない。でも目には目を、歯には歯をというやつだ。
とはいえこいつは中々キツい。円錐状の砲弾が段々顎をこじ開ける。先端のとんがりは当に口腔へと押し入り、今や直径の広い筒型の部分に差し掛かるところだった。この山を越えたら僕は敗北するだろう。つまりここが峠ってわけだ。僕は壁を見つけたら迂回する種の人間だが、時として迂回しようのない壁だって現れる。そういうのは諦めて乗り越えるしかない。
いや。
諦めるな。
これは迂回できる種の壁だ。
壁を迂回する種の人間と、迂回できる種の壁が出会ったら何が起こるか。
それは迂回だ。転回であり旋回であり、一種の最適解だ。
僕は弾を噛んだまま、貧弱な首を強引に振り抜く。そうして弾の進路を変えてやる。受け止められないなら受け流してやればいい。そしてたぶん僕たちの物理学を逸した動作なんだろうけど、砲弾は発射されたときの勢いそのままに、主のもとへ帰っていく。大概あの砲弾も超絶強力不思議物質だったのだろう。
轟音振動、黒煙、強風。やがて煙が晴れたとき、そこに怪物の姿はなかった。後には残骸と呼べるほどのものも残ってはいなかった。
諸行無常。
間違えた。
因果応報。
でもよく考えたらそんなに間違ってもいなかった。
「よくやったね」
空から声が落ちてくる。声のした方を振り向くと、あの竜がこっちを見ていた。だいぶ離れていたけれど、何せ竜が規格外に大きいので距離感が狂う。
「私は君にその歯をあげよう」
「歯は元々僕のものだと思うんですが」
「銀歯みたいなものだよ。君の歯は君のものだが、私なしでは今の歯はない」
「まぁ何だっていいんですけど。どうせただって訳ではないんでしょうし」
「そうだね。その歯は虫歯もしないし歯磨きもいらない。とても便利なものだからね」
竜は優しげに笑ったけれど、僕には厄介なことに巻き込まれたという確信があった。こんな人智を超えた能力を与えておいて、見返りを何も求めないというのは考えにくい。それにこの竜だってもしかすれば今回の事件に一枚噛んでいるかもしれないのだ。そして恐らく僕はこの件について選択権を持ってはいないんだろう。そもそも僕はこんな能力なんて欲しくはなかったし、お関わりにすらなりたくなかったんだから。
面倒なことになりそうだな、と僕は無闇にだだっ広くなった空を仰いだ。間違いなく何かが始まろうとしている。それもとびきり面倒なことだ。というか今もう面倒だった。今後死ぬまで何十年間、毎日しゃこしゃこ歯を磨いて暮らしていた方が、ずっとマシだと思えるぐらいに面倒だった。
深呼吸とため息ひとつ。口の中がほろ苦い。歯磨きしたら取れるだろうか。まぁ無理なんだろうけど。
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