最果て

 待ち合わせ時間の十分前になってあいつからメールが来た。急用ができて今日は来れなくなったとのことだ。俺はスマホをじっと見つめたまま、寄る辺なく改札前に突っ立っていた。しばらくして詰まった息を天井目がけて吐き出した。最後にあいつと会ったのは高校を卒業した年の春だ。だから約一年半ぶりの再会になるはずだった。きっともう会えないのだろうな。頭の中で色んな思いがぐるぐる回っていた。

 しばらく何も手につきそうにはなかったが、それでも返信はせねばならない。しかしそのための文章が浮かんでこない。結局、『分かった、じゃあまた今度な』という短い文を絞り出して書いて送った。多分その今度はない。

 沈んでいると待ち合わせの時間になった。ひとまず帰ろうと思った。ここにいたってしょうがないんだ、あいつはもう来ないんだから。そうして立ち去ろうとしたとき、駅構内の雑踏に混じって見覚えのある人影が目に入った。あいつだ。結花梨だった。

 どうしてあいつがここにいるんだ。今日は来れないんじゃなかったのか。他人の空似かと思ったが確かにあの姿は結花梨である。これはどういうことだろうか。色々と推測を走らせていたら、こちらに気づいたらしい結花梨が小さく手を振った。俺も一応と控えめに手を挙げて返事をすると、結花梨は小走りにこちらの方へ向かってきた。

「よっす!! おひさだねえ」

 間違いない。結花梨だ。結花梨が確かに目の前にいた。

 メールの内容が本当なら結花梨が今日ここに来るはずはない。それが何食わぬ顔で挨拶してきたので面食らった。今日来れなくなったという話が初めからなかったことのようだ。

「えっと……なんでお前ここにいるんだ?」

 俺が訊ねると今度は結花梨がきょとんとした顔をした。それから戸惑いがちに笑って言った。

「今日会おうって言ったのキミからでしょー? 真顔で冗談言われるとビビっちゃうよ」

「え、だって」

 俺はスマホを取り出した。結花梨本人からのメールを見せるつもりだった。しかしメールの受信ボックスを開いてみても結花梨からのメールは見当たらない。おかしいと思って送信ボックスも当たってみたが俺の返信さえその中にはなかった。どういうことだ。間違っているのは俺の方なのか?

「なになに? どったの?」

「だってお前、今日用事ができて来れなくなったってメールで……」

「えー? 絶対そんなの言ってないよ。現に私今ここにいるし!」

 結花梨は両手を腰に当ててアピールしてみせた。結花梨の言うことはもっともだ。結花梨がここにいるなら件のメールがあるはずはないし、本人が目の前にいるのも事実だ。

「今日のキミなんかヘンだね。まぁヘンなのは生まれつきだけど」

「生まれつきってなんだ……」

「生まれつき? 前々からって言いたかった!」

「なんにせよ失礼な」

 言い終わらないうちに結花梨が俺とすれ違うようにして袖をつまみ、くるりとこちらを振り返って笑いかけた。そして袖をぐいと引いた。長い黒髪がさらりと流れた。

「行こうぜ! 立ち話もなんだしさあ」

 俺は結花梨に引っ張られるままに歩いた。結花梨の足取りは軽やかだった。しかし俺が踏みとどまると、袖を握っていた結花梨も足を止めた。そしてこちらを振り向いて小首を傾げた。

「なに? どうかした?」

 そう訊ねた結花梨の背後を指差して言った。

「そっちは逆。俺らが行くのはあっち、西口の方」

 駅前と聞いて思い浮かぶような店や建物は西口方面に集中しており、駅の外れである東口方面には何もないと言っても過言ではない。せいぜい小さなゲーセンとコンビニがひとつと、あとはバスターミナルぐらいのものである。結花梨もそれは知っているはずだ。それに今日はまず初めにどこかの店で昼食を取る予定なので、東口に用はないのだ。

 すると結花梨は無言で固まった。俺もなんだか動いたら負けなような気がして動きを止めた。少し面白くも感じる反面、人の往来の中にあってこれは目立つ。俺にも恥じらいはあるので袖を引かれた状態で静止するのは差し控えたいところだった。一方結花梨の方はといえば話を理解したんだかしてないんだかいまいち分からない顔をしていた。なんでこいつは理解不能みたいな顔をしているんだ。負けを認めて沈黙を解こうとしたそのとき、結花梨がまたも袖をぐいぐい引っ張った。袖が伸びてしまうんじゃないかと心配になる強さだった。

「なんでだよそっち逆だっての!」

「いやだっ! 私はあっちに行くんだあ!!」

「東口ってバスターミナルとゲーセンぐらいしかねぇじゃん!!」

「バスターミナルとゲーセンがあるよ!!」

「最初昼ごはん食べるって予定だっただろ!?」

「予定は未定!!」

 その後もあれこれ言い合いつつも結局東口まで引きずられていった。東口には何もなかった。ノルマ達成、西口行こっか、ゲーセンは後でいいや。結花梨が言った。なんなんだこいつはと思ったが、不思議と悪い気はしなかった。高校のときの自分がここに帰って来たような感覚があった。そして結花梨とこうやってしょうもないことをしている時間が何より好きだったのを思い出した。

「ほらほら行こうぜ」

 結花梨に袖口を掴まれて動き出した。改札口へと今来た道を戻るのだ。

「分かったから引っ張るなっての」

 秋晴れの空が澄んで高い。涼しい風が絶えず辺りを駆け巡っている。メールのことなど俺の意識からは当に外れていた。今の俺には目の前にいる結花梨が、そして目の前に結花梨のいることが、何より大事なことだったのだ。


「ねーねー!」

 昼食を済ませてレストラン街のファミレスを出ると、結花梨がおもむろに話しかけてきた。

「どうした?」

「私行きたいとこあるんだけど」

「どこ?」

「手芸品店」

「ああ、お前好きだもんな。行こうか」

 さんくす!! 結花梨が肩をバシバシ叩いた。やめろとは言ったものの別にやめてくれなくてもよかった。

 手芸品店は同じショッピングセンターの七階に位置しており、俺たちのいるレストラン街よりだいぶ上だ。エレベーターに乗り込んで扉を閉めると、結花梨は開口一番に呟いた。

「エレベーター乗ってるときって黙っちゃうよね」

「お前はその類の人間ではないけど」

 エレベーターは途中で止まることなく昇っていった。結花梨の喋りも同様で、Gがかかるぜとかなんとか言って口を閉じることがなかった。結局お目当ての階に到着するまでその調子だった。

 俺はひとりで手芸品店に入ったことなどないので勝手が分からない。結花梨の後についていくことに徹する。かつてはこうして結花梨の付き添いで中に入ることもあったが、それ以外の用があるわけでもなかった。だからこんなところに来るのは一年半振りぐらいだろうか。手芸品店なんてどこにでもあるし、毎度ここに通っていたわけでもないけれど、それでもなんだか懐かしい感じがした。俺は自分があの時と同じように、結花梨と並んで棚の間を縫って歩いたり、結花梨が商品を手に取るのを眺めたりしていることが、どうしようもなく嬉しかった。

 結花梨が立ち止まってまたひとつ品を手に取った。ボタンがいくつか入った小さな袋だった。しばらくじっと見つめてから棚に戻し、今度は別のボタンを手にして眺めるというのを何度か繰り返した。結花梨が何かを手に取る度、自然と俺の目も結花梨の手元に向く。白くて小さくて綺麗な手だ。指先は細やかでほっそりしていて、優しく握らなければ折れてしまいそうだ。いつもそんなことを考えながら手を繋いでいたのを、ひとり密かに思い出した。

 再び結花梨が動き出し、俺もその後をついていく。時折足を止めては何かを探すかのように陳列棚を眺めたり、やはり品物を吟味するように見つめたりした。その顔は真剣だったが楽しそうでもあった。こうしている結花梨を見るのが、俺は好きだった。

 俺は結花梨の華奢な肩に、あるいは小さな背中に、そして薄い胸に結花梨の存在を実感した。この人が今俺の側にいるのだという喜びが沸いて心に脈を打った。訳もなくそっと肩に手を触れたりぎゅっと胸に抱きしめたくなるのだった。多分愛しいのだ。愛しくて仕方がないのだ。しかし俺は自分の胸に起こったそれをぐっと押し殺してこらえた。触れるのに手を伸ばすことすら必要ない距離にいるのに、そうするのは中々難儀なことだった。何せ一年の距離を知っているだけに。

 ふと結花梨が声を挙げた。布売り場でのことだった。様々な色や柄をした生地が棒状に巻かれ、棚一面に収められている。

「ねぇこれ! 見て見て!」

 結花梨が抱えたのは、赤色を下地に鮮やかな緑の葉や白い花がいくつも描かれた生地だった。それには見覚えがあった。

「これ……アレか? アロハシャツの」

「そう! アロハ!」

 結花梨が弾けるように笑った。

 高校二年の夏休みのことだ。ある日結花梨が俺のサイズを測らせてほしいと言ってきた。当時は既に結花梨が手芸好きなのは知っていたので俺はそれに応じた。家に招いた結花梨にメジャーを巻き付けられながら、何を作るのか訊ねてみた。完成してのお楽しみだと結花梨は言った。二週間ほどしてお披露目されたのは、目に眩しい赤色のアロハだった。ずいぶん鮮烈だな。そうとしかコメントしようがなかったのを覚えている。

 その鮮烈の生地を今、結花梨が抱えている。

「あれつまりどういうことだったんだよ」

「キミ絶対アロハ似合わないだろうなーと思って」

「じゃあなんで作った」

「面白いからさ!」

 実際結花梨は俺のアロハシャツ姿を見るなり腹を抱えて笑った。色々ポーズを要求されたし写真も撮られまくった。なんならサングラスも用意されていて完全におもちゃ扱いだった。

「私キミには青とか緑が似合うだろうなって思ってたのね。だから赤いアロハにした」

「バカなのか?」

「いやーね、マジでキミが気に入らなかったら後日ちゃんとしたの贈ろうって思ってたの。でも案外気に入ってそうだったから」

「それはまぁ」

 間違ってはいない。というのも結花梨が俺のためにわざわざ作ってくれたものなのだ。現物はどうあれきちんと採寸して布を裁ってボタンを縫い付けて時間を掛けてくれたのだ。そんなものが気に食わないはずがない。

「色々文句は言ったけども。やっぱり嬉しかったよ。全部ひっくるめて楽しかったしさ。あの時はありがとうな」

 結花梨は口元を緩ませたまま、こくんと小さくうなずいた。そして俺の目を見つめた。

「私も。作ってて凄く楽しかった。着てくれてありがとう。貰ってくれて嬉しかったよ」

 その言葉に何か返そうとしたけれど、何も言えなかった。不格好な間が空いて、それから結花梨は生地を棚に戻した。

「レジ行ってくるね。出口のとこで待ってて」

「分かった」

 結花梨と一度別れ、俺は店の前に立った。外から改めて店内を見やると、生地の棚が端の方に見えていた。遠くにあって例の赤色はひときわ目を引く。俺の目にはあの鮮烈な赤がこんなにも焼きついていたのだと、改めてこのとき実感した。


 外に出ると茜の色が青い空に透けていた。陽の去り際の寂寥が街に下りて、吹く風もどこか切ない涼しさだった。

「なぁ、俺も行きたいとこあるんだけどさ」

「いいよいいよ! どこ行く?」

 息を吸い込んだ。声を音にする前にやっぱりやめようかと思ったが、それでも俺は胸を絞るようにして、駅前にある都市公園の名前を出した。それを聞いた結花梨はほのかに驚いた気色を見せつつも、やがて小さく笑った。

「いいね。あそこ、私も好きだよ。行こう」

 俺たちは共に歩き出した。目的地までは十分もあれば着くだろう。

 歩みを進めていると道中右手に蓮が青々と繁っているのが見えてきた。今向かっている都市公園というのは城跡を公園として整備したものなのだが、その名残のお堀には蓮が植えられ、毎年こうして花を開くというわけだ。一応はこの堀も都市公園の一部ではあるのだが、中々そう認識している人はいないように思う。俺たちがその名前を聞いて思い浮かべるところは、もう少し歩いた先にある。

「ここ、こんな凄い景色だったっけか」

「見る目が変わったんじゃない?」

 言いつつ結花梨は足を止め、堀の欄干に両肘を乗っけた。

 盛りの時期は過ぎたのだろう。蓮の花はそう多くもなく、茶色く干からびた花托の群れにぽつぽつ混じっている程度だった。しかしむしろそれゆえに蓮の花の桃色が鮮やかに際立ってくるようだ。そして陽光に照らされた蓮の葉は、生命の色は緑とばかりに生き生きとしている。そんな蓮がこの駅前にまるで原っぱのように繁っているのは思えば稀有なことである。奥行きも横幅も相当なものだ。

「かもな。地方も悪くない気もしてくる」

「ほんとにー?」

 結花梨がいたずらに笑ってこちらを見た。

「今のところはほんと」

 俺は再び歩き出した。歩き出しながら、すべきか否か迷ったけれど、堀を見つめる結花梨の肩を抱くようにぽんぽんと触れた。『行こう』のサイン。実際に触れてしまった瞬間どんな反応をされるかと血が冷えたが、結花梨は何事もなかったかのように欄干から離れた。良かったのだろうか。

 蓮の堀を横目に歩いていると、結花梨が「トンボ!」といって堀を指差した。見れば蓮の乾いた花托で赤トンボが羽を休めている。秋らしくて中々情のある風景だ。

「にしてもなんで枯れた蓮ってあんなにキモチワルイんだろ」視線を蓮に結花梨が呟いた。「まー見ちゃうんだけどね」

「分かる。グロいけど見ちゃうよな」

「私だったらもっとこう、別のデザインに仕立てるよ」

「例えばどんな」

「まずは蓮の穴全部に目玉を埋め込む」

「そっちに舵を切るのか……」

「次のアロハは蓮目玉柄にしようか?」

「突っ込みどころはひとつに絞って」

 俺たちは蓮目玉について話しながら蓮のお堀の広小路を歩いた。当たり前だが蓮目玉などというものは存在しない。結花梨が適当なことを言っているだけだが、案外会話は盛り上がった。翌朝目覚めたとき忘れていてもなんら支障がないくらいどうでもいい話だったけれど、多分ずっと覚えているだろうなと思った。そしていつかまた蓮の花を見る機会があったら、俺は蓮目玉のことを思い出すんだろうなと思った。それと、結花梨のことも。


 アスファルトの坂道を上りきると、視界がぐんと開けたところに出る。四方を林で囲まれた広場のような空間で、中心に生えている芝生を囲むように道が舗装されている。入り口から見て左側にはソフトクリームなどの売店の小屋が、右手の遠くには屋根つきのベンチが建てられている。実に公園らしい場所だが俺の目的地はここではない。目指すは奥に見える、石造りの階段のそのまた向こうだ。

 階段の先にも道は延びている。石の縁取りが施された細かな砂利道だ。視界に絶えない葉の緑や静閑な雰囲気も相まって、庭園の中を歩いている錯覚に陥る。先ほどまで街の中にいたのが嘘みたいだ。

 コオロギの声の響く中をふたり連れ立って歩いていると、ふと左手側の視界が開けた。池だ。水面が木々に囲まれ、ぼんやり枝葉と樹木と黄昏の空を映している。さながら俺たちは木の間から池を覗き込むような形だった。石の灯籠なんかも設えられていて日本庭園の趣が強い。

「雅だ」

 結花梨が呟いた。

「雅だな」

 俺もおうむ返しに口走った。

 それ以上の応答もなく俺たちは進んだ。この空気の中ではそれで十分だった。

 歩いていると今度は橋が見えてきた。弓なりに弧を描いた木製の橋だ。

 ん、と結花梨が声を挙げて指差した。結花梨の指の先、橋の上には一羽のカラスがいた。カラスの方も俺たちのことを見つめ返したが、やがて興味無さそうにそっぽを向いた。欄干から頭を出して流れる小川を眺めている。

「倒さないと先に進めないやつ」

「ここそんな殺伐としてねぇよ」

 しかし川を見つめるカラスというのも面白かったので、俺たちは橋の手前で立ち止まって観察した。無理に押し通ると何をされるか知れなかったのもある。じっと見つめているうちに、カラスは羽ばたきの音を響かせて飛び立った。俺たちは橋の上に立ってカラスの眺めていた小川を見下ろした。そこには鯉が二匹、赤色と金色のが寄り添うように泳いでいた。

「これを見てたのか」

「カラスにも鑑賞の心ってあったもんかねー」

 結花梨が欄干に手をかけ、鯉に目を落としながら呟いた。

「カラスには人がどう見えてるんだろう」

「つまらないもんだろうさ」

 先ほどのカラスの態度を思い出しながら答えた。すると結花梨はこちらに視線を向け、意味深長に笑った。

「なに」

「斜に構えおって~お前~!」

「別にそんなんじゃないって」

「高校からまだ中二病引きずってんのか~!!」

「もう完治した!!」

 ほんとか~? 結花梨がからかう調子で言った。ほんとだ、と返した。俺たちの騒ぎに驚いてか、金の鯉が橋の下から遠ざかっていった。残された一匹はその場に留まっていたが、やがて思い出したかのようにどこかへ泳ぎ去った。自分がひとりになったのだと、そのとき初めて気づいたみたいだった。


 この都市公園は広大なだけあって道の分岐は幾多に上る。基本は砂利の道だが、公園の端側になれば車が入れるよう舗装された道も見られる。分かれ道に行き当たる度、結花梨は進路を俺に託した。俺はその都度砂利の上を歩いたりアスファルトを踏んだりした。結花梨に言うわけにはいかないが、事前に下調べはしておいたので進行はスムーズだった。目的地まではもうすぐだ。

 舗装された坂をひとつ上ると、その先にはまた砂利道が続いていて、木の葉や木の枝が無造作に落ちて散らばっていた。相変わらず頭上には自然の天蓋が張られ、隙間からは夕空が見え隠れしている。

 ふと隣の砂利を踏む音が止まった。結花梨の方を振り向くと気を取られたように宙を見つめている。視線の先を追いかけるとそこには一匹の蝶が飛んでいた。

「アゲハ」

 俺が蝶の名を口走ると結花梨も半ば上の空ながらうなずいた。秋の半ばに珍しい。そんなことを思いながら見つめていたら、蝶はひらひら急ぐように飛び去った。

「ここって色々いるねえ。鯉もいるしカラスもいる」

「俺たちもな」

 そう言ってなんだか自分でどきりとしてしまった。変に含みのある言葉だった気がする。しかしだからといって訂正撤回をするのも余計に変なので、俺は身動きが取れず黙ってしまった。だがそれも杞憂だったようで、結花梨はいつも通りの調子で返した。

「野生の私たちってここで生きていけるかなぁ」

「無理だろ」

「諦めるの早いよ」

「まず食べるもんねぇじゃん」

「鯉とカラスとアゲハ」

「やめとけ」

 俺が再び歩き出すと、結花梨も歩調を合わせるようにして進み出した。ふたり並んだ沈黙に砂利の音が心地いい。

「結花梨」

 俺は結花梨の名を呼んだ。今隣で一緒に歩いている人の名前を呼んだ。一音一音を、しっかりと、声に出した。結花梨のことを考えながら名前を呼んだ。

「はーい?」

「見えてきたよ」

 頭上から下ろされた光のカーテン、その向こうにその場所はあった。

 茂る枝葉で覆われた空間に、東屋がひっそり密やかに佇んでいる。三角の屋根と数本の柱でできている、壁のない簡単な作りの東屋だ。四方に下りた軒の下には腰をかけるスペースが設えられている。

「懐かしいね」

 それは俺も同じだった。かつて、三年と半年も前。俺はこの場所を選んで、結花梨もこの場所で俺を選んでくれたのだった。

 ここは俺の場所であり、そしてふたりの場所だったのだ。


 東屋自体はこの公園にいくつも存在している。しかしこの場所は山の端に位置しており、生い茂る木々の向こうに街の景色を見下ろすことができた。初めてここを見つけたときには誰もいなかった。次に結花梨と来たときも。結花梨と一年を迎えたときも。俺が県外に出る前の日にも。そして今も。

 結花梨が東屋の屋根の下、街の見える場所に腰を下ろした。俺はその左隣に。いつもの席だった。

 しばし夕陽を見つめていた。会話はいらなかった。吹く秋風が俺たちの言葉だった。葉擦れの音がそっと静かに俺たちの世界を包んでいた。

「久しぶりだね」

 結花梨が呟くように言った。

「ああ」

「どうだった。この一年」

「色々あった」

「……うん。だよね」

 その同意は結花梨にとっても波風に満ちた一年だったのか、それとも俺のことを顧みてだったのか分からなかった。

 それから俺たちはぽつりぽつりと話した。時の流れとか、新しい環境とか、きっと誰もが久々に知り合いと再会したら喋るようなことを、俺たちは夕焼けの風の中で話した。

 ずっと切り出すタイミングを伺っていた。ふと風が止んで、それに呼応するかのように会話も止まった。多分、今だと思った。

「結花梨」

「なーに?」

 こちらを振り向いた結花梨に、ずっと思っていたことを言った。ずっと想っていたこと。それで、もう一度やり直したいと。

 言っている最中にわずかに後悔のようなものが兆した。言ってしまった、と思った。後に戻れないということだけで言葉を続けているようなものだった。

 結花梨はじっと俺の目を見て聞いていた。ふと結花梨が見せる真剣な顔が俺は好きだった。見入ってしまうぐらいに綺麗なのだ。その顔が俺を見つめていた。ずっとこうならいいのにと思った。さっきの言葉は取り消して、この時間だけ切り取ってスマホに保存しておきたかった。

 しかし伝え終わってみると、まだこんな言葉では足りないと感じて無念だった。まだ少しも気持ちを伝えられていなかった。言葉になったよりずっと結花梨のことが好きだったし、一度切れた繋がりをずっと悔やんでいた。

 俺が口を閉ざすと結花梨は目を伏せた。白い頬がほんのりと紅くなっていた。ふたりの間に訪れた沈黙はあまりにも不安定だった。長い沈黙だった。絶えず吹く風が枝葉を揺らしていたが、それなのに時が止まってしまったかのように思えた。もしかしたらずっとこのままなのが幸せなのかもしれないと思った。いっそ先などない方が。

 しかし結花梨は再び視線を上げた。そしてなみなみと水を注いだコップを渡すみたいにして言った。

「ありがとう」

 結花梨がありがとうと言った。俺はそれで思い出した。最初のときも結花梨はまず始めにありがとうと言った。そのときはありがとうと言われるなんて全く思っていなかったから、動揺して何も返せなかった。ああ全部あのときみたいだと思った。俺は何も返せなかった。

「ちょっとごめんね、今混乱してるから……まとめるからちょっと、待ってね」

 俺はうなずいた。

「今日じゃなくてもいいからさ」

「……ううん。今言う」

 結花梨が頭を横に振った。あんまり結花梨を見つめているのもよくないと思い、俺は正面を向いた。街の景色が枝葉の向こうに広がっている。夕焼けが遠い。再びの長い沈黙の後、結花梨は口を開いた。

「正直、今日はすっごく楽しかったし……なんとなくそんな気はしてたんだけど、でも実際、改めてキミの気持ちを聞いたら、……やっぱりいいなって思っちゃったんだけど……」

 だけど。

 ああ、駄目だ。駄目だったか、と思った。駄目じゃなければだけどなんて言わない。駄目なんだなと思ったけれど、でもどうして駄目なのか、せめてちゃんと聞きたかった。

「やっぱり、一回離れて駄目だったから……ちょっと、怖いなって……キミに申し訳ないし、私もさ、不安……っていうか」

「…………そっか。分かった。ありがとうな。ちゃんと……言葉にしてくれて」

 こくりと結花梨がうなずいた。愛らしかった。やっぱりちょっと抱きしめたかった。よく笑ってよく騒いでたまに泣いたり怒ったりする結花梨を力いっぱいに抱きしめたかった。

 少し心の整理が必要だった。それは向こうも同じだったのか、お互い何を言うともなく隣同士に座っていた。多分俺は酷く情けない格好をしていたと思う。結花梨はそんな俺を見てなんと思ったろうか。それともこちらを見る余裕なんてなかったろうか。結花梨には申し訳なかったけれど、それでも結花梨は俺を待ってくれていた。

「ありがとう」

 俺は結花梨に言った。

「最後にちゃんと気持ちを伝えられてよかった。今度はちゃんと駄目だったから、……うん、もう大丈夫。ありがとう。聞いてくれてありがとうな」

「ごめんね」

「謝ることじゃないだろ?」

 しばらく互いに見つめ合っていた。結花梨の姿形、表情、目の色、この距離、どれもが特別なものだった。俺の心はむしろ晴れやかだった。すっと透き通った気がしていた。一年の淀みが報われて救われたような感じがした。しがみついてもがいていた手が優しく開いた気がした。俺の苦しみが終わる。結花梨の瞳をじっと見つめて、それから視線を外へ向けた。夕陽の色に染まった街が海みたいに広がっている。誰もいないみたいに静かだった。きっと結花梨が俺のことを待ってくれているのだった。

「今日は付き合ってくれてありがとうな。そろそろ帰ろうか」

「うん」

 全てを終えて立ち上がろうとしたとき、ふと思い出すことがあった。結花梨にそのことを訊ねようか迷ったが、今ここで訊かなければ心残りになると思い、座ったまま結花梨に訊ねることにした。

「なぁ」

 結花梨がこちらに顔を向けた。まだ静けさの抜けきっていない顔に、俺は問いかけた。

「お前さ。お前って、本当に結花梨なのか?」

 風が強く吹いた。木々の葉擦れが全ての音を遠ざけ、結花梨の髪が風になびいてさらりと流れた。空も夕陽もぴたと動きを止めたかのようだ。俺は何か核心のようなものに触れた気がした。やはり訊いておくべきだったのだと思うと共に、結花梨の言葉を心して待ち構えていた。

 結花梨は表情のない眼差しで俺を見つめていた。それは絶対的であり、客観的な眼差しだった。俺の内面やこの問いかけに至るまでの道のりを審査して、何らかの審判を下そうとしているみたいだった。結花梨の顔は表情が豊かだけど、いざこうして真顔のままを見つめていると、その素地となる顔つきは恐ろしいほどに冴えていた。いったいどうして俺の綺麗と感じる要素が、ひとりの人間の内にこうも組み合わさっているのか不思議に思った。これが自然に生まれたというのはひとつの奇跡だった。それは何も顔立ちだけの話ではない。どうしてこの姿に結花梨の心が宿ったのだろう。結花梨がこの姿とこの精神をもって生きているというのは、いったいどういうことなのだ? ――俺はそうしたことが不思議でならなくなった。目の前にいるのが結花梨なのか、それとも結花梨の姿をした誰かなのかも分からなかったけれど、俺は確かにそいつを見つめながら、他でもない結花梨のことを頭に浮かべていた。

「それはね」

 やがて結花梨が口を開いた。

「キミが一番よく分かってるはずだよ。本物の私が、今日ここに来るはずはないじゃん」

 特に驚きはしなかった。不思議と心にすっと通ってきた。何せ結花梨の言う通りだった。ああ、そうかと思っただけだった。俺は何と言うべきか迷ったけども、結局簡単に返した。

「だよな」

 結花梨は優しく笑んで俺を見ていた。俺を見守るみたいにして。

「……誰だか知らないけど、今日は世話になった。ありがとう」

「キミ、大丈夫かい?」

 結花梨はいかにも結花梨らしく訊ねた。だから俺もいつもどおりに応じた。

「何がさ」

「私なしでやっていけるぅ?」

「まぁ。多分。やっていくよ。これでも一年間お前なしでやってきたんだ」

「その一年はどうだった」

 結花梨はついさっきしたような質問を再びした。俺の方も敢えて隠すことはないと思って答えた。

「苦しかった」

 結花梨は笑みを浮かべたままそっと目を伏せる。何かを慈しんでいるみたいだった。

「また苦しくなるかもだよ。大丈夫?」

「そりゃ多少はな。別れればそれは。……まぁ本当は一年も前のことでさ、成り行きに任せてそれっきりっていうのが本当だったんだろうけど」

「お節介だったらごめんね」

「いや。さっきも言ったけどさ、ちゃんと思ってたこととか、気持ちとか、外に出せたから。感謝してる。もう心残りはない」

「ほんとかい? ほんとかー?」

 ああ、結花梨だ。まるで結花梨だ。結花梨は何か言うのを躊躇っているようだったが、やがて視線を外しながら言った。

「…………キミのよく知ってる私は、これからもキミの知ってる街で暮らすし、キミの知ってる街で生きてくよ。でもね私、それからきっと、キミの知らない人を好きになるよ。それでもいい?」

 そう訊ねられて俺は目が眩むかと思った。心臓が固く結んだ拳みたいに縮んで冷たい血が流れた。それは俺にとって残酷なことで、我慢できなくて、想像したくないことだ。とても認めたくはなかったけれど、俺がうなずこうが首を振ろうが、結花梨はきっとそうして生きていくのだ。俺は結花梨が今どんな日々を過ごしているのかは知らないし、知るよしもない。距離というのはそういうものだ。いいとか駄目とかの問題ではない。自分がそれを認められるか、受け入れられるか、諦められるかということなのだ。

「いいよ」

 俺は言った。

「仕方ないんだ」

 その言葉は自分に言い聞かせているような気がした。実際その通りではあるのだろうが、だが今それでいいと言わなければ、どうにもならないと思ったのだ。こんなにも愛しくて大好きだった人を諦められるはずがないだろう。それでも悔いなどないふりをして、自分は平気なふりをして、全て仕方のないことなのだと自分に言い聞かせて生きていかなければ、立ち直ることなどできないのだ。

 結花梨は静かに目を閉じて、深く穏やかに息をついた。それからゆっくりとうなずいた。分かった、と言うようだった。

「それじゃあ、私もそろそろ行こうかな 」

 結花梨はすっと立ち上がり、こちらを向いて前方の欄干にもたれかかった。夕陽に照らされ枝葉を背に、髪は夕風にそよいでいた。

「ちょっと痛いぜ。我慢してよね」

 これから何が始まるのか、結花梨が何をしようとしているのか俺には分からなかった。結花梨を見つめるしかできなかった。結花梨は笑んでいた。その表情のまま、右手を小さく振った。

「ばいばい」

 途端に風が強く吹いた。夕陽が鮮烈に閃いて俺の両目を射抜き、俺は思わず目を固くつぶって片腕で押さえた。森が倒れ山がひっくり返らんばかりに木々がざわめいていた。俺は何がなんだか分からないまま瞼の裏の暗がりに縮こまっていた。しかしやがて自分の中から何かが湧いて出てくるのを感じた。それらを手に取るように確かめてみると、それは俺自身の記憶らしかった。そして五感で感ぜられるありとあらゆる感覚だった。強風が俺の内側をめちゃくちゃにかき混ぜて、澱に淀んでいた色々の思い出を目の前に浮き上がらせてくるのだった。未練で錆び付いていた愛しい時間のいくつもが、再び息を吹き返して俺の前で生き生きと躍動した。夢と言えないほどはっきりしていて現実味があって、俺は結花梨との時間をここに生き直しているようだった。

 例えばそれは夏祭りのとき口に突っ込まれた綿あめの甘さだった。例えばそれはあの日ひとつのイヤホンで分け合った音楽のメロディだった。例えばふたり自転車で風を切りながら浴びた日差しの暖かさで、例えば服越しに伝わってきた華奢な肩の温もりだった。運動会でバトンを手に走るあいつへの憧れとか誇りとか、メールの着信音や、シャンプーの甘い香り。笑い声。手の柔らかさ。わずかに立つ汗の匂い。あいつが道端ですっ転んで膝から流した血の赤さ。肩に預けられた頭の重み。真新しいアロハのからりとした肌触り。水族館の冷ややかな空気。教室でちらちら交わした視線。後ろから走って近づいてくる軽やかな足音。あいつの派手な寝癖。スマホ越しのノイズ混じりな声。学校の玄関口で待っていた後ろ姿。後ろに束ねられた髪へのときめき。引かれる袖。試着室に入ったあいつを待っているときの期待感。確かに握り返された右手。一本の傘の下の距離感。バレンタイン当日の期待。吹き出し花火の火薬の匂い。遠慮なくぶつけられた冷たい雪玉。熱い涙。さらりとした髪の手触り。そっと触れた唇。途方もなく寂しい夕暮れ。梅雨の湿り気。眠れない夜の無駄話。結局遊んだ勉強会。途中まで同じ帰り道。些細ないさかい。どこかですれ違うのをどこかで期待していた修学旅行の自由行動。なんだかあいつは波長が合うなとそのぐらいに思っていた春。俺はあいつのことが好きかもしれないと参ってしまった布団の中。あいつのことを思っては頭を抱えていた夜。初夏の夕焼けの下の告白。はじめてふたりで歩いたこの公園の帰り道。それからの日々。それからの日々が。それからの日々が今ここに流れていた。俺は今過去の中に在った。過去が今風に吹かれ陽に照らされここに生きて俺を包んでいた。膨大な量の時間が、確かな経験と質量をもって一時に訪れ、俺を途方もない混乱の最中に突き落とした。しかし俺はその一つひとつを、確かに受け止めては見送った。じっくりと、少しずつ、それぞれに面と向き合った。そしてその全てに、ああ俺はこれが好きだったんだなとか、またあの頃に戻れたらいいなとか、何かしらの思うところがあった。みなついさっき手放すことを決意したものであり、諦めたものであり、当の昔に失われたはずのものだった。きっとこれは一瞬のことだったのだろうが、やっぱり俺には永遠に近い出来事みたいに感じられた。しかしやがてそれらはみな過ぎ去っていった。風に飛んで遠く遥かに流れていってしまった。風は止んだ。嵐は過ぎた。

 俺は震えていた。なぜ震えていたのだろう。あまりの衝撃だったからだろうか。やっぱり悲しくて仕方なかったからだろうか。未知の体験が怖かったからだろうか。俺は震えながらにまぶたを開いた。夕陽が遠くに燃えていて、手を差し伸べるみたいにして陽光を注いでいた。

 ふと目の前にひらひら舞うものがあった。おぼつかない目でその軌跡を追いかけてみると、どうやらそれは一匹のアゲハチョウらしかった。放心したようにその姿を追いかけていたが、やがて蝶は夕陽に向かってその羽を羽ばたかせた。遠く高くにその羽は舞い上がっていった。ずっと蝶を見ていたけれど、やがてその影は見えなくなり、夕空の最中に溶けていった。


 ふと我に返って、もしやと思いスマホのメール欄を覗いてみた。そこにはあいつからのメールが確かにあった。今日は会えなくなったと確かに書かれていた。しかしもはやメールの有無は些細なことだった。

 しばし呆然と街を見下ろしていた。ここから見える街の景色はいつか来たときと少しも変わらない。この空間だって同じだ。場所というのは今さっきで何かが変わるものではない。それでも俺には、今自分のいるこの場所が、何か決定的な変質を起こしたように感じられた。本当はずっと前から変化していたのかもしれない。俺が気づかなかっただけのことで、あるいは、俺がそれを受け入れたくなかっただけで。

 しかしやっぱりこの場所はずっとこの場所であり続けるのだろう。ここに来るための道をたどればここに来るのだろうし、この公園の案内図にも、東屋という名前でここは載り続ける。きっとそれだけのことだ。

 帰ろう。そう思った。長い夢を見ていた。

 やがて夕陽に背を向けて、ひとりの帰路へとつき出した。木の葉を揺する風の触りと、足元に鳴く虫の歌。あいつの影はどこにもない。もうここには誰もいない。

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