生きている女

 気づけば私は畳の和室にいて、女を組み伏せて首を絞めようとしていた。女の腹にまたがって両手で首をしっかと絞めつけており、女の方もあらん限りの力で私の手を引き剥がそうと苦悶している。苦心に喘ぐ声が女の口からも私の口からも漏れた。女は歯を食い縛って目を固くつぶり、全身を強ばらせて表情を醜く歪ませていた。はだけた朱色の和服が鎖骨の骨張りから胸元に至るまでを露にしていた。長い髪は畳に広く流れて乱れ、女の影がだらしなく弛緩してしまったみたいだった。女は色の白い両手で私の手首を掴んで拒み、その上爪を立てて血を滲ませるに及んでいる。私は知らぬ間にこのような状況に陥っていたのだけれど、どうしてもこの女の首を絞めねばならぬと私が私のうちに叫んでいた。そしてこの流れを絶ちきってはならぬという義務感に突き動かされていた。私は女の首を掴んだ両手の、親指にひしと力を込めた。絞め殺すというよりは押し潰すと言った方が正しかった。相変わらず女は抵抗した。喉に溜まっていた声が圧力に押し出されて外に出た。反吐へどみたいな声だった。これはもう少しかと思った。女の抵抗もいささか弱くなってきている。これはもうやったと思って、今度は首を畳から持ち上げるようにして握り潰そうとした。しかしどうにも首が絞まらない。随分しぶといと思ったら、女がびくびく跳ね上がりながら頭をもたげて、ひとつ苦しげに瞬きした。すると顔を入れ替えたみたいにすっと無表情になった。それまでの苦痛の顔や表情の強ばりが瞬きに集められて宙に発散されたみたいだった。それから落ち着いた声で言った。

「あなた、これ、切った方がいいわ。あなた絞まらないんですもの」

 私は手に力を込めるのもやめて女の提案を聞いた。そして確かにこれは切った方がいいなと思った。私が首から手を離すと、女はそのままゆっくり頭を寝かせた。私は女に馬乗りになったままぼんやりしていた。嵐が過ぎたか台風の目に入ったようだった。私は自分と女のいる部屋を見回してみた。数十畳はあろうかという広大な和室で、部屋の隅には朦朧と霞がかっているようだった。天井はさほど高くはない。私の正面、女の頭の方は障子が開け放たれ、縁側の向こうに生け垣と庭が見えた。そして透明な日の光が差し込んで畳に柔らかく染みていた。残る三方にはふすまが連々と続いている。左手側はすぐ襖で、艶出しの塗料の塗られた木製の箪笥たんすがひとつぽつんと据えられている。上半分は開閉式で下半分は三段ほどの引き出しになっていた。おかしな間取りだと思った。これは自分の家なのだろうか。

「あなた、うちのことも分からないのね」

 女が仰向けのままに言った。天井に向かって言っているようだった。

「縁側を行きなさい。ここを出て左に進んでください。二度三度曲がったらあなたの部屋が開いています」

 私は女の言う通りにした。立ち上がって女の上からどいた。女はなおも打ち捨てられた毛布みたいに畳に伸びていた。

 縁側に出て左へ歩いた。庭は砂地が剥き出しで植わる木も花も自然に芽吹いたかと思われるような質素なものだったが、しかし広さだけは立派なようだった。縁側は確かに屋敷を縁取るように折れている。私が道なりに二度三度曲がると、不意に縁側に面した障子が開かれているのを見つけた。中を覗くとそこも畳だったが、こちらは四畳半ほどのこじんまりとした部屋だった。布団が畳まれ隅に寄せられており、中央にはなんとも低いちゃぶ台が置かれている。これは私の部屋だろうなと思った。そこで中へ入ってみると、戸の死角になるところに引き出しのついた机が置かれていた。その引き出しをがちゃがちゃ漁ってみると下から二段目のところに小さなナイフが閃いた。木製の柄を手に取るとよく馴染む。折り畳みナイフらしかったが特に折り畳まれることなく収納されていた。この部屋の者は随分杜撰ずさんだと思ったがどうやらそれは私らしい。私は一応障子を開け放したまま部屋を後にした。他に人がいるのか分からないものの、ナイフを手に屋敷を闊歩するというのはあまり見てくれが良くないのでナイフを畳んでポケットに入れた。

 再び二度三度曲がって和室に着くと、やはり女が畳に散らかっていた。ナイフを持ってきたと伝えたら、そうです、そうですと相づちを打った。そしてまた先刻の続きをするよう催促した。私が女にまたがると、女は首もとに左手の人差し指を斜めに当てて、ここをお切んなさいとにこやかに言った。私はその細い指に冷たく鋭利な刃先を沿わせて、ここだね、と女に確かめた。女は再びそうです、そうですと顎が刃に当たらぬよう小さくうなずいた。私はナイフを女の肌に丁寧に置くようにして、ここだね、と女に確かめた。そうです、そうですと女は答えた。答えながら口元に微かな笑みを浮かべて天井を見ていた。じゃ、切ろう。女は何も言わなかった。頃合いも良さそうだと見えたので、私はナイフを逆手に握って人差し指の爪の側へずぶりと刃先を差し込んだ。真っ赤な血が我慢できないように刃と肉の隙間からふつふつ溢れた。しっかりナイフが奥まで刺さった手応えを受けて、私は柄を握りしめたままぐっと奥に斜めに切った。血が目覚めたように噴き出して飛び、一拍置いてぱらぱら畳に降った。噴出を直に浴びた手首が人に優しく握られたみたいに温かかった。血が噴いたのはそれきりで、あとは傷口からどくどくと水瓶みずがめに穴が空いたように流れて出た。

「切りましたわね」女がけらけら笑った。「それじゃ私、死ぬより仕方ありませんわ」

 そう言い残すと女は目を閉じ、いくつと数える間もなく死んでしまった。傷は血を絞り続けていた。

 私は息をついた。しばらく血の這い出るのを眺めていた。大きな仕事を終わらせた気分だった。そしてそれゆえにこれから何をすべきかとぼんやりしていた。ひとまず固く握っていたナイフを手元に落として、滴る手首を畳に拭った。

 女の首もとから横一直線に血の細道ができていた。道の届かぬその先と、それから脇にもぽつぽつ染みは降り注いでいて、なんだか蓮の葉の群れて浮かぶ湖に桟橋を伸ばしたみたいだった。これは後始末すべきだろうかと思った。畳を張り替えたりなんだりである。しかしそんなことは誰か他の者がやってくれる気がした。私はぼんやり隙間の多い庭を眺めながら、そういえばどうして自分はこの女を殺したのだろうと疑問に思った。この女を殺さねばならぬから殺したのだが、なぜ殺さねばならなかったのかとんと見当がつかない。

「あなた忘れましたのね、あなた」

 女が両肘をついてむくりと体を起こそうとした。相変わらずまたがっていた私はこれでは邪魔だろうと女の脇にどいた。右脇にどいたので切れた女の首がはっきり見える。まだ血に湿って日に光っていた。

「死んだんじゃなかったのか」

「死にましたけど、起きました」

 女は口元を手で覆ってあくびをすると、顔をちらとこちらに向けた。

「私あなたのことたぶらかしましたのよ。あなたとねんごろな仲にありながら、他の男と通じましたのよ」

 女は悪びれる風もなく言った。私はなるほどそれは殺すわけだと思った。しかしわずかながらどうにも腑に落ちないところもあった。

「僕はその男じゃなくて、君の方を殺したのか」

「そうです、そうです」

「なぜだろう。僕が何か手を下すとしたら、きっと男の方だよ」

 私が訊ねると女はまた畳に仰向けに寝転がった。そしてやはり天井を眺めて、独り言を呟くみたいに言った。

「あなたのこと、私に聞かれても分からないわ」

 そうとだけ言い残してまた死んでしまった。私は色恋沙汰の云々でもってこの女を殺したらしいが、何分人に聞いた話なので別に女のことは憎くなかった。ついでに男も憎くない。それに女がこの有り様なので人を殺したという実感はなかった。それで庭に足音が聞こえても特にどうするということはなかった。

 あれっ、と庭先に立った男が声を挙げた。見知らぬ男だった。清潔なワイシャツにベージュのズボンを履き、眼鏡を耳にかけた実直真面目そうな青年だ。私はこの男を見て、ははあさてはこいつがこの女の言っていた男だなとひとり合点した。無論だからなんだということもない。みな人づてに聞いた話だし、この女を殺したのだって誰かがやっていたのを急遽引き継いだようなものだ。

「これはあなたがやったんですか」

 男は縁側に上がることなく私に訊ねた。どうもそうらしい、と私は答えた。どうにも全て他人事な気がしてならないのでそう言うほかなかった。

 困ったなぁ、と男はつるつるした顎をしきりに指でつまんで首を捻った。今日はせっかく会いに来たのにこれじゃ葬式を挙げなきゃならない、あなた葬儀屋に電話してくれませんかと男は言った。分かりました、しかし電話はどこでしょうと訊ねると、男は縁側の私の部屋がある方を指差して、この縁側を行って五六度曲がりなさい、そしたら分かりますからと教えてくれた。私はさりげなくナイフを手に取りながら立ち上がり、男の言う通り縁側に出た。最初の曲がり角で後ろを振り返ると、男が靴を脱いで座敷に上がろうとしていた。他人事ながらに私はふんと鼻を鳴らした。

 自分の部屋に寄ってナイフを机に置きつつ、五六回ほど道を折れると、確かに再び戸の開け放たれた箇所があった。中には狭い板張りの廊下が伸びている。その中を進んでいくとどうやら玄関に行き当たったらしく、台に置かれたダイヤル式の黒電話が玄関の戸を透かした光に艶を放っていた。つくづく奇妙な間取りである。

 私はダイヤルを回そうとして葬儀屋の番号を知らないのに気づいた。辺りには電話帳も見当たらない。これはあの男に聞くしかないかと受話器を置きかけたとき、葬儀屋は何番ですよと遠くから叫んでいるのが聞こえた。男の声だった。私はふんと鼻を鳴らした。それから男の言った通りの番号に指をかけた。

 もしもしこちら何々葬儀社ですと電話が通じた。女性の声だった。葬式を挙げたいのですがと言うと、ええ分かりました、では今日は天気も良いし日が暮れないうちにやってしまいましょうか、そちらの住所は、はいはい、では直に向かいますので喪服に着替えておいてくださいとどんどん話を進められた。挙げ句一方的に電話を切られた。電話の女は電話越しに喋っているのに終始耳元で囁くみたいに喋っていた。今から来て通夜もせずに式を挙げるんじゃ参列者が集まらないだろうにと思ったが、私はあの女の身寄りや人付き合いというものをまるで知らなかった。まぁそこら辺のことも葬儀屋の方で勝手に都合をつけてくれるのだろうと大して気には留めなかった。私は受話器を置いて再び縁側を五六度曲がった。

 和室に戻ると男は既に喪服に着替えていた。それから指先を揃えて箪笥を指し、あなたのはそこにと言った。私は戸を開け引き出しを引き、色々服の詰まった中から自分の喪服を取り出したが、さすがに眼鏡もいて女も転がっているその場で服を脱ぐ気にはならなかった。私は喪服を持って自室に向かった。そうして着替えた。

 上着のボタンを留め終えた頃ちょうど呼び鈴が鳴った。また縁側を曲がり曲がり玄関へ向かい、引き戸を引くと真っ黒なスーツに身を包んだ男がそこに立っていた。男は何々葬儀社の者ですと名乗った。髪を短く刈り上げた肩幅の広い壮年の男だった。私の方も今日はどうぞよろしくと挨拶した。すると男は、失礼ながら既に式の手配は済んでおりますのでお座敷の方へと言った。この葬儀屋は電話の頃から話が早い。何しろ私が口を差し挟む前に話が終わっている。私と葬儀屋の男は縁側を曲がった。私はこれでもう何べん縁側を折れたか分からない。

 座敷に着くと、広々とした畳の真ん中にぽつんと白い棺が置かれていた。坊さんが棺の真ん前に、そして坊さんの背中を見る位置に眼鏡の男と、その隣に女が座っていた。私のことを待っていたらしい。

「随分と簡素だ」

 私は呟いた。葬式はもっと色々込み入っているものだと思っていた。葬儀屋の男も、ええ、簡素ですと呟いた。一応私に答えているらしかった。

 私が棺に寄ると、女が紫の座布団から立ち上がって私に席を譲った。そして棺の蓋を開けて中に入った。女が横になった後、坊さんが蓋を閉めた。

 参列者は私と眼鏡の他にはいないのかと思ったが、やがてぞろぞろと足音が聞こえてくる。思わず振り返ると、喪服に身を包んだ年配の男女らが縁側を通って座敷へ上がってくるところだった。人数は二十前後といったところだろうか。みな一様に紫の座布団を手にしており、各々棺の前のここと決めたところに列をなして座った。どの顔も私の記憶にはなかった。女の縁の者だろうか。

 やがて坊さんが念仏を唱え始めた。ポクポク木魚を叩いてムニャムニャ経を唱え、たまにガチャガチャ数珠を擦り合わせては、時におりんをチーンと鳴らした。焼香が回り出してからもその調子だった。私はじっと座ったまま目玉を動かせる限りに働かせた。左隣の眼鏡の男は神妙そうに坊さんの背中を見つめている。男の向こうに庭が見えた。点々と植わる花木は風にそよぐ気配も見せない。右に目玉をぐりぐり動かすと、六十代手前ぐらいの鷲鼻の親父さんが座っていた。黒い頭髪に白髪が混じって頭が灰色に見えた。親父さんの方も視線を落としたままじっと座っていた。畳の目でも数えているか、寄る辺なく棺の角でも眺めているのだろう。こんな風に周囲を観察していたら、特にありがたみも感じないままに読経は終わった。

 坊さんがこちらに向き直って、これにておしまいですと言って礼をすると、途端に人々は座布団を持って退出し始めた。彼らと入れ違うように入ってきた葬儀屋の男に、あの方々は彼女のご親族ですかと訊ねると、いえあれは当社の者たちですと返された。ああそうとしか言えなかった。

「では火葬に参りましょうか。火葬場はもう手配してあります」

 男がそう言うや否や、また黒いスーツを纏った男がふたりやって来て縁側から棺を運び出した。眼鏡の靴は縁側の下に置いてあったが、私のは玄関の靴棚まで取りに行かねばならなかった。葬儀屋の男は玄関先でお待ちしていますと言って眼鏡と坊さんを連れて場を後にした。私はひとりになってがらんとした和室を隅に立って見回してみた。既に畳の血飛沫は乾いて独特の紋様みたいになっていた。手首には女の血がべっとり張り付いたままだった。

 黒い革靴を履いて外へ出ると、玄関先の道路に車が二台止まっていた。どちらも葬儀屋の物らしく黒かった。二台あるうちの前に停めてあったのが走り出したのを皆で見送ると、葬儀屋の男はもう一台の車の後部座席を開いた。そして私に乗るよう仕草で指し示した。私が屈んで車の中に身を投じると扉が静かに閉められた。隣は眼鏡、助手席には先ほどの坊さん、そして運転席に葬儀屋の男という配置だった。車がエンジンを吹かすのを聞きながら、窮屈な車の中で割り当て少ない私の分の息を頑張って吸い込んだ。

 車は十五分ほどで火葬場に到着した。棺はもう先に着いた車から運び出されてしまったらしかった。その後を追いかけるようにして火葬場の中へ入っていった。

 我々は火葬場のホールに入った。横幅数十メートルはあろうかという長方形のホールで、火葬中の遺族の休憩用にかいくつも椅子が設えられていた。大きな窓が潤沢に日を取り込み、花なども随所に活けられて中々明るい雰囲気だった。正面の長い壁にはいくつも扉があり、我々はその一番左のドアの先へと通された。そこはがらんとして何もない空間で、やはり奥側の壁の中央に小さな扉が施されていた。火葬炉の入り口である。金属の戸は既に開かれ、棺は台に乗せられて今にも炉の奥へと進入しそうな気配だった。

 葬儀屋の男が何か棺に入れたいものはございませんかと訊ねた。私は特になかった。私は女のことをあまりよく知らないし、そもそも死んだような気がしていない。眼鏡の男もこちらはなぜだか知らないが別段ないと言って断った。葬儀屋は承知いたしましたと返事をして、いよいよ棺を炉の中に納めた。坊さんが何やら念仏を唱えて一礼した。そしてとうとう火葬が始まった。

 我々は火葬炉の部屋を出てホールの椅子に座った。この葬儀には一般とは著しく異なるところがいくつもあるようだが、全て自動的にかつ速やかに進むのでそう気に留まりはしなかった。多分こういう形式もこの国のどこかにはあるんだろうと思った。

 一時間ほどして葬儀屋の男が我々を呼んだ。火葬が終わったらしい。これから骨上げをするからと言って私と男に長さの違う木の箸と竹の箸とが組になったのを渡した。そして火葬炉の戸が開かれた。

 もしやと思ったが予感通り女は台の上に仰向けに寝ていた。棺は燃え尽きて失せてしまっていたが、女の体には火傷ひとつ認められなかった。髪が焦げてもいないのである。女は体を起こすと服や体に引っ付いた灰を払いながらあれこれ不平を並べた。ああ熱かった、炉の中ってほんとに暗いしおまけに死ぬほど退屈なのよ、まるで地獄だったわ、あなた人が死んだら極楽に行くか地獄に落ちるかなんて仕方のないことだったのよ、だって火葬炉の中が地獄なんですもの。女は愚痴を吐きながら台から下りた。女のいた場所には焼かれてからからした骨がいくつも転がっていた。岩山の一端を切り取って散らばしたみたいだった。女は部屋の隅に身を寄せながら、これでも骨は取ってきたから、どうぞ骨をお拾いなさい、私の骨をお拾いなさいと囃し立てた。かと思えば骨の上で寝てたもんだから背中が痛くて堪んないわとまた文句を溢した。私と男は足の方から頭に向かって骨を摘まんで骨壷に収めていった。私が箸で骨を摘まむ度、女はやれそれは私の腰骨だのそちらは肋骨だの逐一口を挟んだ。ふと私が骨の中に黒い綿のようなものを見つけてそれを摘まむと、女はそれは焼けて縮れた私のはらわたですわとわざわざ教えてくれた。詳しいんだねと適当に返事をした。腸はうっちゃっておいた。

 かくして骨壷がふたつ出来上がった。これでもう火葬場には用がない。私と眼鏡の男は骨壷を小脇に抱えながらともに車に乗り込んだ。遅れて坊さんと葬儀屋の男が前方の二席に座った。

 車は人も信号もない道をすいすい駆けていく。やがて葬儀屋は私の家の玄関先に私と眼鏡の男とを下ろした。自らも車を降りて別れの挨拶を告げると、再び車を走らせて去っていった。空は夕焼けだった。炉の扉から覗く火葬の火に似ていた。

 私は男にこれからどうするのかと訊ねた。男はもう帰るほかないと答えた。私はそうかいじゃあねと言って男の去るのも待たずに家の中へ入ろうとしたが、思い出したことがあってまた男に面と向かった。

「骨壺をくれないか」

 男は私に言われて初めて気がついたみたいに手の中の骨壺を見つめた。それから思い出したように笑った。

「そういえばこれもただじゃなかったね」

 言って男は骨壺を差し出した。けしからん奴だ。私はふんだくるようにして骨壺を受け取ると、ぷいとそっぽを向いて玄関先に立った。鼻がぷんと鳴いた。

 私はポケットから鍵を取り出して玄関の引き戸に差し込もうとした。しかしやはりと考え直して縁側から上がることにした。数多の人々が縁側から出入りしたけども当の私はそうする暇がなかった。それで縁側の下に靴を脱いで座敷に上がった。

 部屋の隅には血の倒れた跡が乾いていた。私はひとまず縁側を曲がって自室に寄り、机の上に骨壺ふたつを置いた。女を殺したナイフが女の骨の隣に血を垂らして寝ていた。それから畳んでいた布団を広げた。それから寝間着に着替えたいと思い、和室に戻って箪笥を覗いた。それらしいものが見つかったので私は喪服を脱いで再び箪笥に閉まった。寝間着に着替えると疲れがどっと出てきてしまったのか非常にまぶたが重くなってきた。それで自室に戻り、まだ西日の差す頃合いだったけれども、戸を閉めきって目を閉じてしまった。

 ――目覚めたのは夜だった。どれほどの深さだったかは分からない。また眠ろうまだ眠れると目をつぶっていたら、突如として頭の中に女のことが閃いた。そういえば女はどうしたのだろう。火葬場からの帰りの車には乗っていなかった。置いてけぼりになったにしてもここが家ならば帰れぬことはあるまい。帰れぬにしても帰ろうとせぬことはあるまい。私はにわかに女のことが気になってきた。別に心配しているというほどのものではない。ポケットに突っ込んでおいた飴玉の包み紙を道にうっかり落としたぐらいのものである。しかし頭を離れなかった。暗闇の中で仕方なく女のことを考えていたらいつの間にか鳥が鳴いていた。

 私はそれから幾日ほどか女のことばかり思い浮かべていた。女はどこで何をしているのか、また別の男を見つけたのか、首の傷は今も開いているだろうか。そういう類の空想が風車になって頭の中をくるくる回るようだった。風は一向に止む気配がない。時には女を探しに外へ出てみたこともあるが、首もとの傷はどこにも見当たらなかった。

 女を殺して葬式を挙げてからしばらく経ったその日も、私は女のことを考えながら縁側に臨んで庭を眺めていた。空は明るく風がそよそよ吹いていて風車がよく回る。ふと庭の土を踏む音がしてそちらを向いた。すると女がさっき家を出て今しがた帰って来たような顔で姿を現した。首には確かに絵筆で塗り付けたような傷が残っていた。

「どこで何をしてたんだ」

 驚きつつも開口一番問いただすと、女はあちこち遊んでいたのだと軽い口振りで答えた。ちょっと花見に出かけていたような言い方だった。

「随分長い間遊んでたんだな」

「あらそれほどでもありませんわ」

 そう言って女は左手の人差し指と中指を首の傷に沿わせて挟んだ。そして指を開いて傷を広げた。桃色の肉が門を開けた。

「まだ傷も塞がってませんのよ」

 そりゃ塞がらないように刃を入れたんだからそうだろう、私が言うのを聞いているんだか聞いていないんだか女は庭に目を向けた。

「ねぇあなた、あれなんですか」

 女は庭の土が盛られて石が置かれたところを指差した。私は言おうか言うまいか迷ったが結局言うことにした。

「お前の墓を作ったんだ」

「もうちょっと豪勢なのでも良かったんじゃないですか?」

「お前にはあれぐらいで十分なんだ」

 女はそうですねえと言いながら私の隣に腰を下ろした。その語調には私を可愛がるような一枚上手の雰囲気があった。

「今日はのどかですわ。やっぱり帰るにはぴったりの日でした」

 女は空を仰いでいた。女の言う通り今日はとびきりのどかである。低木の葉は陽光に艶を出し、花々は風にゆらゆら揺れている。

「そうだなあ」

 淡い青空を雲が向こうへ泳いでいく。今日は一等穏やかな日である。少し前に隣の女を殺したのがまるで嘘のようであった。

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