会社の玄関口を出ると、黒い着物に身を包んだ母が立っていた。帯に描かれた菊の花が目を引いた。母は慎ましやかに手を前に組み、私を待っていたようだった。

 肌寒い風が肌を掠めるようになってきたこの季節、その容貌はあらゆる点で異質で、時候から見ても不自然であり、特に祭事も無い平時の都市には似つかわしくなかった。しかし着物の黒に織り込まれた菊の紋様は美しく、冷ややかに上品に母を飾っている。

 母は哀しげに微笑を浮かべた。私は行かねばならぬような気がして母の目の前へと歩を進めた。

 短い距離ではあったが、途中酷く母が心配に思われた。目の前に母がいるにも関わらず、どこか遠くにあるものを懐かしみ渇望するような気色がした。不気味、とは微少ではあるが異なった気色でもある。埋めようの無い心の虚ろを無理に指摘され押し広げられている、そんな耐えがたい感覚だ。

 かくして母の眼前に立った。かすかに母は視線を落としたが、微笑は絶えていない。

 ふと私も母の着物の襟に目を移したが、死装束になっている様は見られなかった。一応この現象は死せる母の霊魂が引き起こしたという訳ではないのだろうか。根拠はないがそう思った方が気楽だとは直感した。

 故郷に残してきた両親、並びに母は健在であるはずだが、今目前に佇んでいるものが何なのかは分からない。この母の形をした何かは、何がために私の生活するこの都市に顕在したか。本当に母であるならば、と仮定してみても、依然動機は不明瞭だ。一瞬、誰かの葬儀へと私を呼びに来たのかとも思ったが、親類が亡くなったという連絡は入っていない。母は常に私の身を案じてくれていたから、急用があればまず私に電話等で連絡を入れ、忙しくても無理をしてはいけないと、そういった旨の言葉を添えて送るはずなのだ。そして私の故郷はここから遙か遠い。バスや電車といった何らかの公共交通手段を用いるにしても、平時に身を着物に包み向かおうとはとても考えられない距離だ。不可思議極まりないとしか言いようがなかった。

 息子の心中を察してか、母――と思しきそれ――は口を開いた。

「迎えに来ましたよ」と。

「迎え?」

 重厚な疑問符が投げ落とされ、迎えという言葉にまつわる色々の思慮が巡らされる。だが頭の中に導かれたこの疑問への回答はいずれもが空を掴むようだった。

「迎えって、どこに」

 おそるおそる尋ねてみた。最も恐ろしい回答を頭に浮かべながら。

「家に決まってるじゃない」

 母はさも当たり前のように返答した。だが言われてみればそうだ。母が子を迎えに来たならば、行くべき場所は家なのだ。

「車も停めてあるから、行きましょう」

「車って、母さんの?」

「そうよ。ちょっと遠出してきちゃった」

「ちょっとって……しかも自分で運転して」

 にわかには信じがたかった。片道車でどれほど掛かるかというのを考慮すれば、ますますこの格好で何のために私を家へと迎えに来たかというのが分からなくなる。

「さあ、行きましょう」

 母は私に背を向け歩き出した。揺れる袖や裾、団子状に束ねられかんざしの差された母の髪。私は一瞬瞳に柔らかな喜色を浮かべた母の後を追い始めた。母を追ったといっても、本当はその暗澹あんたんたる双眸そうぼうに浮かんだ温かな光を追ったのかもしれないし、母について行くきっかけが欲しかったのかもしれない。空は灰色に曇っていたが、その向こうには夕焼けが広がっているのだろうと思った。

 奇妙には奇妙が重なるもので、道行く人々には私の前を歩き先導する母の姿が見えていないようだった。見えていないと言っても、私自身にはそれが単純に視覚で認知されていないのか、もしくはごく自然なものとして路傍ろぼうに転がる石ころ程度の認知しかなされていないのかは計り知れない。訝しみつつも近場の駐車場に足を向けているらしい母の後ろについて行った。

「あれですよ」

 駐車場へと進入し、母の視線は入って左側手前の隅を指した。

 示された車は小さく角張っていてクリーム色をしている。フロントに飾られた小物からナンバープレートの数列に至るまで間違いなく懐かしき母の車だった。

 母が運転席に乗り込むと、私はその後ろの席につく。私の定位置だった。ドアを閉める音のみが空の下のがらんどうに響いた。母が鍵を差し込みひねると、車は二、三回咳払いをした後やっとエンジンを吹かす。これも母の車の癖だった。

 ついに車は発進し、車窓の外の景色が動き出す。取り囲んでいた灰色のビル達はその輪郭を溶かす。時折見慣れた看板が過ぎ去っていく。

 着物姿でハンドルを握る母は相変わらず不思議で、どこか滑稽だった。表情は伺えない

がまだ微笑んでいるに違いないだろう。私はその後ろ姿に安堵を覚え始めていた。この人は、私の母なのだ。このような送迎も古い記憶の中に確かに存在している。初めてのことではない。年月こそ隔てど初めてのことではない。

 車に揺られながら、私は母に話しかけた。故郷の様子を尋ねると、母は何も変わっていないと答えた。父は元気に土をいじっているし、近所の人たちも変わらない生活を送っているという。這って歩くしかできなかった隣の家の赤ん坊がすっかり二本足で歩けるようになったことだけが唯一の変化だということだ。

 対して母は私に、都会は反対で常に環境が動くのだろうと問いかけた。私がその問いに肯定し、近況の変遷について語ると、母は驚き混じりに、前に聞いたときとは話がずいぶん違うじゃないと寂しげに言った。心の奥底では長らく連絡をとる暇が私に無かったことを憂えているのだろう。たまには帰ってきてほしいという母の願いに、私はこれから帰るんじゃないかと返答した。少しの間の後、母はそうね、と返した。心なしか声は明るかった。

 ぼんやりと、窓の外の曖昧な灰の空を眺めていた。ふと気づけば、緑色の木々の葉が目に飛び込んでくるようになった。葉が車の屋根を擦る音が聞こえる。

 程なくして車は止まった。大きな川が流れているのが見える。どうやらこの車は河原の坂の上に止まったようで、草花の緑に覆われた斜面と、そこを下った先の河川敷が眼下に広がっていた。どことなく見覚えのある景色だ。

「母さん」私は呼びかけた。「母さん?」

 しかし返事がない。気づけば母の姿も着物を残して消え失せている。席に座っていた母の肉体のみが霞と散ったが如く、着物はそのままの体勢で残されている。どうしたことかと考え込んだがどうしようもない。仕方がないので外へ出ることにした。

 ドアを開け砂地に足を下ろすと、澄んだ空気が胸に入ってきた。故郷と同じ空気に違いなかった。

 母はどこへ行ったのだろうか。もぬけの殻と化しているであろう運転席をのぞき込んで、私は目を瞠った。菊が咲いている。母の頭は大輪の菊の花に置き換わり、ハンドルの握られていたであろう部分には着物の袖から伸びたつるが何重にも絡みついている。菊の花は人間の頭蓋程はあり、細い茎では自重に絶えきれずしてかうなだれている。蔓は菊とは独立しているようで、その先に丸く小さな白い花をつけている。しなびた菊の葉が黒い着物にいくつも覆い被さっていた。

 やはり、これは母ではなかったのだ。

 無念ではあったが、つい先ほどまで母だったそれに背を向けて坂を下り始めた。やがて斜面は平地と変わり、足裏に伝わる感触も固くなる。水のせせらぎに耳を傾ける。

 川岸に立つと、この川は海のようだと思った。見晴らしがいいからかもしれない。対岸もこちら側と地形が似ていて、坂の上に木々が並んでいる。水面は澄んでいるが曇天を写し暗い。

 いつの間にか、傍らに男の子が立っていた。短く狩り揃えられた髪の毛にランニングシャツ、そして短パンと真夏の白昼の制服とでも言うべき格好をしていたが、もはや時候との不一致は些末な問題である。かける言葉も理由も無く、しばらく二人並んで立っていた。

「ねぇ」

 沈黙を破ったのは少年の方だった。

「おじさんは向こうに何があるか、分かる?」

「向こう?向こう岸のことかい」

「ううん、もっと」

 私を一瞥いちべつすることもなく少年ははてしない遠方を指さした。少年の言う通り、対岸の林の更に向こう側、朧気ながらに何かが見える。

 そびえ立つビル群。私を取り囲んでいた都市の風景。

「あそこにはね……ビルがあるよ。高い建物がいっぱい」

「へーぇ。他には?」

 他には、と言われると返答に窮してしまう。私が都市で過ごした何年かの記憶を漁るものの良い回答は見つからない。決して悪いことばかりではなかったはずなのだが、どうにも思い出せない。あそこには何があった?

 彼が私に与えた回答時間はとうに過ぎてしまったようで、少年は手にした小石を凝視していた。そして初めて私の顔を見上げた。

「おじさん、水切りってできる?」

「懐かしいな。昔はできたんだけど」

「じゃあ今もできるよね」

 彼は振りかぶり、水平に小石を水面に投げ入れた。三、四……と小石は水上を飛び跳ねつつ進んでいく。

「へぇ、上手だなぁ」

「おじさんもやってみなよ」

 誘われるがままに私も足下の小石を拾い上げた。記憶が重なる。水切りについて自分なりに研究していたあの頃。よく飛ぶ形は、手首の角度は――。



 雲間から陽が差し込む。開けた雲の切れ目から空が望む。

 無邪気に笑い合う二人を菊は見ていた。その菊が何を思ったかは誰も知る由が無かった。

 空はまだ青い。

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