ショートショート掌編小説集

うなかん

青林檎の君

 かりりと林檎りんごを齧る音がした。青林檎を収めた君の手は仄白ほのじろく、薄暗い部屋の中でぼうっと霧散むさんしてしまいそうだった。君が青林檎を欲した理由が分かった気がした。これが赤い林檎だったなら、きっとその絢爛けんらんな赤色に君は負けてしまうのだろう。それでも今、もし僕が赤林檎を差し出したなら、君は嫉妬なんて気を起こさない、典雅てんがで穏やかなひとだから、真っ赤な林檎を届かない憧憬で見つめて、諦めるように笑うんだろうね。もうすっかり、明朗だった君の影はどこにも見当たらなくなってしまった。白いシーツと枕と病衣、そんなものが似合う姿になってしまった。それでも黒く艶めくその髪だけは、在りし日と全く同じ輝きを放っている。だから僕には、君が全くもって健やかで、ただ疲れて横たわっているようにしか見えないんだ。また明日になったらすっくと起き上がって、朝陽を胸いっぱいに吸い込んで、どこへ行こうかと僕に呼び掛けるんだ。ねぇ君、君は一体どこに行くんだい。

「私はね」

 君の声は静かだった。病室に満ちる静寂の中をぽつぽつと伝わって、また空白に溶けていく。僕はそれを必死にかき集めて、どこにも飛んでいってしまわないよう胸に抱くのだけど、気づけば空っぽになっているのだよね。こんな風にさ、今君がここにいるという現実も少しずつ飛び散っていって、やがて僕には君がいたような記憶しか残らなくなってしまうのだろうね。そういうのは嫌だな。もっと確かなものが欲しいよ。不確かでいいから、君の存在からにじむものが欲しい。声を言葉を。

「もうどこにも行かないよ」

 そうして君は青林檎を僕に託した。君の齧った跡は白くてみずみずしく、いかにもこれが生命の詰まった果実みたいに思われた。どうしておんなじ白なのにこいつは未来を思わせるんだろうと思った。僕は君と違って仕方のない人間だから青林檎にさえ嫉妬をした。それであんまり僕が林檎を恨めしい目で見つめていたからか、君は僕の手を握って、それから林檎に手を当てて言った。

「私はここにいるから」

 君はその優しい黒の瞳で僕を見つめて、僕も君の凪いだ目を見つめた。それきりだった。最期は笑っていた。やっぱり僕は泣いた。嗚咽おえつが潜めようにもどうしようもなくて漏れた。涙が青林檎に零れて伝い、白い病室の床に落ちていく。そうしている内に、青林檎を齧った跡が君の生きていた証みたいに思えて、それでまた泣いた。今度はおいおいと泣いた。ねぇ君、もしかしたら君が本当に欲しかったのはこれなのかい。ねぇ君よ。君。


 それから程なくして、僕は庭にその林檎の種を植えた。家の中がどうにも耐え難く空っぽだから、自然と意識は外に向いた。そうして月日が流れ、今や君の林檎の樹は毎年たくさんの果実をつけるようになった。そうすると僕はいつも、一つだけ青林檎を取って齧る。そして目を閉じる。そうやって今も君を想う。青林檎の君を想う。

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