ショートショート掌編小説集
うなかん
青林檎の君
かりりと
「私はね」
君の声は静かだった。病室に満ちる静寂の中をぽつぽつと伝わって、また空白に溶けていく。僕はそれを必死にかき集めて、どこにも飛んでいってしまわないよう胸に抱くのだけど、気づけば空っぽになっているのだよね。こんな風にさ、今君がここにいるという現実も少しずつ飛び散っていって、やがて僕には君がいたような記憶しか残らなくなってしまうのだろうね。そういうのは嫌だな。もっと確かなものが欲しいよ。不確かでいいから、君の存在から
「もうどこにも行かないよ」
そうして君は青林檎を僕に託した。君の齧った跡は白くてみずみずしく、いかにもこれが生命の詰まった果実みたいに思われた。どうしておんなじ白なのにこいつは未来を思わせるんだろうと思った。僕は君と違って仕方のない人間だから青林檎にさえ嫉妬をした。それであんまり僕が林檎を恨めしい目で見つめていたからか、君は僕の手を握って、それから林檎に手を当てて言った。
「私はここにいるから」
君はその優しい黒の瞳で僕を見つめて、僕も君の凪いだ目を見つめた。それきりだった。最期は笑っていた。やっぱり僕は泣いた。
それから程なくして、僕は庭にその林檎の種を植えた。家の中がどうにも耐え難く空っぽだから、自然と意識は外に向いた。そうして月日が流れ、今や君の林檎の樹は毎年たくさんの果実をつけるようになった。そうすると僕はいつも、一つだけ青林檎を取って齧る。そして目を閉じる。そうやって今も君を想う。青林檎の君を想う。
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