Last Quest レッドドラゴン ~ハイデガー~

36.震えて上を向け

「どうする? やってみるかい?」


 朝日が空を駆け上がる中、俺達4人を試すように、そして少し不安そうに、クエスト受付所のおばちゃんが顔色を窺う。


「んん…………」



 あれからまた幾つかのクエストを成功させ、俺達のパーティーはこの町でも大分名が知れるようになっていた。

 しかしそれでも、このクエストは少し迷う。



「ヒルさん、どうします……?」

「……よし、やろう! レッドドラゴンだな!」

 俺の返事に、彼女は軽い溜息で相槌を打った。


「分かったよ。でもアンタ達、くれぐれも気をつけなよ。命を落としたパーティーもいるからね」

「ああ、わかったよ」

 手をヒラヒラさせて僅かな緊張を誤魔化し、そのまま全員でベルシカ半島に向かう船に乗った。





「鱗かあ。遂に俺達もドラゴンを相手にするんだな」

 船に揺られながら、手をギュッギュッと握った。



 おばちゃんに相談して決意したクエスト。鱗を煎じて飲むと、飲んだ人の才能が開花する効果があるらしい。

 ただ、レッドドラゴンの鱗は堅くて剥がれたり落ちたりすることがないので、倒さない限り手にすることは出来ない。即ち、実際の目標はドラゴン討伐だ。



「どうやって戦うかが問題だな」

「これまでの敵と段違いだしね。私も魔力高めないと」

 良い哲学魔法があるか、若干の期待の目でアイクに目を遣ると、彼は頭を掻いて返す。


「そうですね……あの、話少し変わりますけど、『存在』って何なんでしょうね」

「話が下手すぎる!」

 少しどころじゃないですけど。全部書き換えられてますけど。


「アイクさん、今度は存在について考えてるんですか?」

「ええ、そうなんです、イセクタ・ユンデ。これまでは存在をどう認識するかを考えていましたけど、そもそも『存在する』とはどういうことかが気になり始めました」

 また何か難しそうな話題だな……。



「例えば、イセクタ・ユンデ。『無が存在する』という状態は有り得るのでしょうか?」

「無が存在する……? え、無が……無が! 無が……無が……? 無が!」

「イセクタ、もう無理するな」

 混乱しすぎてムガムガ言うだけの生物になってるぞ。


「存在という概念そのものも、人間とそれ以外の動物で、考え方に違いがありそうな気がします」

「まあ他の動物のことは分からないけどなあ」


 と、イセクタが勢いよく手を挙げた。


「ヒルさん、ボク分かりました! 無の存在について!」

「その話終わったんですけど!」

 いいんだよそこはもう!


「ヒルさんがドラゴンの火に焼かれて死体になるとするじゃないですか。そしたら命は無いけど存在しますよね?」

「最悪の例えを持ち出すな!」

 多分そういうことじゃないし!



「ったく。今回はホントに危険なんだからな」


 言いながら、背伸びを繰り返すように揺れる水面を眺める。



 レイピアと戦ったときの、あの圧倒的な「死」の予感。思い返さないようにしても、ふと気付くと心を蝕んでくる。


 止めた方がいいと分かってるのに、頭は勝手にお腹を刺された自分を想像して、思わず体が震えた。



「ヒルギーシュもですか、僕もです。これが恐怖心なんですかね」

「お前もか」

 隣にアイクが並ぶ。俺が見ても分かるほど、その体は震えていた。

 へえ、さすがの哲学者もドラゴン相手だとやっぱり怖いのかな。


「まずはこれを止めないと……うえ……おぶっ……ぐええ、気持ち悪い……」

「ちょっとアイ君、船酔いじゃない!」

「そんなこったろうと思ったよ!」

 ずっと下向いて考えてるからだ!


「アイクさん、上! 上向いて!」

「おええ……上という具体的なものはないのに、その概念は確実に存在してるんですよね……」

「一旦哲学忘れろ!」


 甲斐甲斐しくアイクのお世話をした結果、自分達も酔ったので、船旅が退屈にならずに済みました。




***




「よっし、到着」

 ベルシカ半島に足を踏み入れたのは昼前。冒険日和の快晴は、この先何日か続くらしい。


「ヒルさん、場所って離れ小島でしたっけ?」

「ああ、潮が引いたときに木の橋が現れるらしいぞ」


「潮が引く……? え、生贄とか捧げるんですか? ヒルさんは攻撃には欠かせないんですよ?」

「時間で引くんだよ! あと何で俺が捧げられることが決まってるんだ!」

 いちいち俺を葬るな!



「小島は東端だ。東に向かって進むぞ。俺が先頭を歩く」

「あ、ヒルギーシュ。人間と動物の、存在に対する認識の違いを考えたいので、僕は後から行きます」

「一緒に来てください!」

 冒険始めますよ!




 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

■メモ:現象学・存在論とハイデガー

 デカルトやカント、ヘーゲルなどの哲学は、「存在をどう認識するか」「どうやって真理という存在に辿り着くか」という議論でした。


 一方で、「この世界や世界に存在するものは一体どう在るのか」という観点からこの世界を解き明かそうとした哲学者もいました。

 有名な考え方の一つが現象学です。


 私達がリンゴを見ているとき、自分の主観の外にリンゴが存在していることを確信していますが、実際は主観でリンゴを捉えているに過ぎません。


 同様に、自分の手も友人も過去の体験も、全ては自分の主観の中にあるにもかかわらず、私達は世界が自分の主観の外に存在することを疑いません。


 その確信がなぜ生まれるのかを解き明かすのが現象学であり、創始者はエドムント・フッサール(1859~1938)です。



 そしてこのフッサールの弟子がマルティン・ハイデガー(1889~1976)でした。


 彼は「そもそも物事が『存在する』とはどういうことか?」という存在論の復権を宣言します。アリストテレスが形而上学(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884296205/episodes/1177354054884590613)として考えていた存在そのものに関する謎を、2000年以上の時を経てハイデガーが採り上げるのです。

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