28.出でよ、反対の僕
「アウフヘーベンが効いてる……? ヒルさん、どういうことですか?」
「さっき、軽く魔法をかける仕草してから人倫の話しただろ。あの魔法を食らってみんなアイクの話を強力に信じるようになったのかもしれない」
俺の説明に、レイが頷く。
「イセクタちゃん、酒場でアイ君がおじさん達にアウフヘーベン使ったの、覚えてるでしょ? あれと同じことよ。体を麻痺と毒状態にしたように、脳内に道徳と法律を統合した人倫を植えつけた」
「で、でもレイさん、アイクさんは何も起こらないって……」
そう、本人はそう思ってる。だけど。
「思い出してみて、『
「で、いつもアイクと一緒にいる俺達は耐性がついてたから、アウフヘーベンが効かなかったのかもしれない、とかな」
周囲では相変わらずの「人倫! 人倫!」という連呼。
そしてその異様さも気にせず、演説を続けるアイク。
「……ですから、自由というものは、個人の精神の話ではなく、この現実社会で実現されなくては意味がないのです。その実現過程が、正に歴史なのです」
お前、ちょっとはこの状況に驚けよ。
「それにしても、精神操作なんて初めて聞いたわよ……独裁国家くらい簡単に作れそうだわ……」
「魔術の歴史が1人のせいで様変わりしそうだな」
哲学魔法、底知れない怖さがある。
「で、どうします、これ?」
「アイクに魔法止めてもらうしかないだろ」
「とりあえず前に行くわよ!」
立ち尽くして叫んでるだけの人々を掻き分け、アイクの昇っている壇にあがった。
横にいたビーキュも、「人倫! 人倫!」と、無表情で声を張り上げている。
「歴史の中で、弁証法を通じて国の在り方も変わっていきます。そして最後には道徳と法律が共存できる共同体、人倫が生まれる」
「人倫! 人倫! 人倫!」
「おい、アイク、一旦中止だ。お前のさっきのアウフヘーベンがみんなに効いちまってる」
「はい? いいですかヒルギーシュ、よく見てください。彼らは僕の言葉に共感してるだけですよ」
「お前こそよく見てください」
こんな共感の仕方があるか!
「アイクさん、魔法解除できませんか」
「いや、イセクタ・ユンデ、これは皆、僕の演説の結果なんですよ」
軽く首を振って、観衆に向き直る。
この満場割れんばかりの拍手と歓声に、幾分酔っているようだった。
「こりゃ聞く耳持たないな。イセクタ、どうする?」
「……多分気絶すれば効果止まると思います」
「同感っ!」
抜刀して構える。それでも、会場からは悲鳴の一つも聞こえない。完全な精神操作だ。
「ヒルギーシュ、今は演説で忙しいんです。僕を倒そうというなら、反対の僕が相手になります」
「反対……?」
右手を広げ、自分に向けるアイク。
【アンチテーゼ】
「うわっ!」
「眩しっ!」
オレンジの強い閃光、やがてそれは人の形になっていく。
そして光が止み、背格好も服装も全く同じアイクがもう一人、生まれた。
「アウフヘーベンは、前提の説であるテーゼと、対立する説のアンチテーゼによって生まれる……これが今の僕と対立する、逆の僕です」
哲学魔法で生まれたアイクが、目を開ける。
「さあてっ! 戦っちゃおうかな!」
なんだこのキャラは! 確かに対立だけど!
「ヒルさん、この偽アイクさんは一体……?」
「イセクタ・ユンデ、僕と戦おう! 戦略も思考も要らない、体の向かうままに攻める!」
もうキャラが。違和感しかない。
「でも厄介ね……このアイ君、理知的でもないし好戦的だし……」
「ああ、普通に戦いたくないタイプだ」
そこに本物のアイクが、俺に向かって手を翳す。
「もっと混乱してもらいましょう。その間に僕は演説を続けます」
【アンチテーゼ】
しまった、食らっちまう――
「ヒルさん、危ない!」
俺を突き飛ばし、アイクの魔法を受けるイセクタ。
「イセクタ!」
「イセクタちゃん!」
さっきと同じようにオレンジの光がエルフを形作り、もう1人のイセクタになった。
クソッ、本当に余計混乱――
「……目標確認、アイクさんとその偽者、2人を速やかに沈黙させます」
目を覚ましてすぐ、短剣を抜く、新しいイセクタ。
「これが……ボクの反対?」
本物のイセクタが驚いてる間に、偽者は前進して偽アイクの前に立った。
「おう! イセクタ・ユンデ、僕と戦う気になったか――」
「終わりです」
短剣を高速で振り、胸と腹を切る。「あ……」という空気の抜けるような声と共に光が弾け、雲散霧消した。
これがイセクタの逆……とんでもなく冷酷な戦士だ……
「さて、次は本体」
この状況に、さすがのアイクも焦りを見せる。
「いや、イセクタ・ユンデ、僕を倒したら偽者である貴方も消え――」
「全ては承知の上」
素早くアイクの後ろに回りこみ、短剣の柄で殴る。
ゴンッという鈍い音とともに倒れこむアイク。そしてすぐに偽イセクタも、眩い光を放って消えた。
「止まった、か……?」
残った俺達3人と、倒れたアイク。
聴衆の人倫コールも止み、演説者が倒れて知らないメンバーが壇上に上がっていることにザワついている。
「ヒル君、どうするの、これ?」
「まあビーキュに謝ろうぜ。怒ってきたら精神操作だ」
「ふふっ、そうね」
レイと顔を見合わせて、苦笑いした。
***
結局、ビーキュに事情と経緯を説明し、アイクの出馬は取りやめになった。彼は随分惜しかったようだけど、「精神操作で票を取ってるって疑われても困りますよね?」というレイの一言で諦めがついたらしい。
「おかしいですね、みんな僕の演説に納得してたことは間違いないんですけど」
「魔法発動しちまったからな、仕方ない」
首を傾げるアイクに、レイとイセクタはクスクス笑った。
「まあ、またよろしく頼むぜ、アイク」
「……ですね。政治より冒険の観察の方が楽しそうです」
俺の伸ばした手に、握手で答える。
「よし、じゃあヒルさん、次のクエスト受けに行きましょう!」
「なるべくなら思考だけで解決するようなものがいいです」
「そんなものはねえよ」
4人で笑って、いつもの受付所に向かった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
■メモ:歴史と未来
カントは、自ら定めた行動規則である「格率」と、人間が従うべき「道徳法則」を一致させ、実践していくことで真の自由を手に出来る、と考えていました(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884296205/episodes/1177354054884676645)。
しかし、ヘーゲルは異なる説を展開します。
彼にとって自由とは、そのような個々の内面の話ではありませんでした。あくまでこの現実社会で、具体的に実現されなくては意味がないのです。
では、この世界でどのように自由が実現されるのか。その過程が歴史であると、ヘーゲルは考えました。
奴隷が当たり前だった古代から教会の支配する時代へ、さらに絶対王政が生まれ、ヘーゲルの生きた時代ではフランス革命による共和制への移り変わりも起きました。
こうして弁証法の形でより良い社会が形成され、最後には道徳と法律が共存できる共同体、人倫が生まれる。それが、ヘーゲルの描いた未来だったのです。
真理を見つける手段として弁証法を主張し、弛まぬ思考で理想の共同体を提唱したヘーゲル。その功績は正に「近代哲学の完成者」でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます