近代・現代

Quest 5 キサンカイコ ~ニーチェ~

29.神様はもう

「おばちゃん、ちょっと難しいのない?」


 西からの陽がアイクの髪をオレンジ色に変える夕方。クエスト受付所で、椅子の背もたれに寄りかかってパイプを燻らせていたおばちゃんに話しかける。



「ああ、アンタ達かい。そこの哲学者のアンタが大活躍してるんだって? よく噂になってるよ」

「いえ、僕は自分の思考を深めているだけです。やめてください」

 そう、その噂が広がると俺がイジけるだけです。やめてください。


「じゃあねえ、これなんかどうだい? 北西に切り立った崖があるらしいんだけど、そこにいるキサンカイコっていう蚕を捕まえるんだ」

「蚕かあ」


 動きも遅いし捕まえるのには苦労はしなそうだ、と思っていると、イセクタが腕組みをしている。


「蚕なんか何に使うんですか? たくさん集めてレース? 賭け蚕?」

「よくそんな盛り上がらそうな企画思いつくなお前」

 ゴールするまでジッと見てるだけですけど。


「イセクタちゃん、蚕が吐いた糸を繰って生糸にするの。服の材料になるのよ」

「へえ、すごい!」


 騒ぐ俺達を諌めるように、おばちゃんが煙を軽く俺達に吹きかけた。


「まあ、キサンカイコを捕まえること自体は難しくないよ。問題はその前さ。崖には相当強いモンスターが棲みついてるらしい。コイツにやられて収穫なしで帰ってきたパーティーも少なくない」

「へえ、そいつは逆に腕が鳴るな。おばちゃん、そのクエストやるぜ!」

「はいよ、気をつけていきなよ」

「ヒルさん、出発前に武器買いに行きましょうね!」

 こうして、ワクワクするような次の冒険が決まった。




「レイさん、キサンカイコって色んな体色があって、その体色と同じ色の糸を吐くらしいですね」

「そっか、それで人気なのね」


 明日からの出航に向け、酒場で英気を養う。丸く高いテーブルを4人で囲み、高いスツールに座ってとろっとろに溶けたチーズをハフハフと味わった。


「普通の蚕もクロン王国内じゃ足りないらしいぞ。昔から養蚕業やってるところはたくさんあった気がするけど」

 ウィスキーを飲みながら熱い息を吐くと、レイが教えてくれる。


「ちょっと前までは糸から織物を作るところまで全部手作業だったのよ。でも、糸を繰る機械や織物を織るところまで機械でできるようになったから、蚕の方が追いついてないのね」

「へえ、便利になったもんだな」

 踏み板のある機械、確かに何度か見たことある。


「アイ君の服の赤も、くすんでる分、派手すぎなくて良い色よね。似合ってるわ」

「ありがとうございます、嬉しいです」

 レイ! 俺にも! 俺にも似合ってるって言って!



「まあでも、便利になっただけじゃないんでしょうけどね」

「どういうことですか?」

 溜息の代わりにグラスを干すレイに、イセクタが訊く。


「その機械は木製だから、どんどん木が切られてるのよ。それに、機織りの作業場所を作るために近くの草原を焼き払おうって話もあるわ」

「そっか……家庭の調度品も工場で作って、煙がひどくなるって反対運動起きてる町もありましたよね」

「そうね、煙とか汚水みたいなものはこれから問題になっていきそう」

 2人の話を聞いて、アイクを小突く。


「お前さ、今みたいなの聞いて、哲学より現実の問題に目を向けようとか思わないの?」

「いや、そういうのは得意な人がやればいいんです」

「お前は特異な人だからな」

 返事予想できてましたけどっ。


「あと、工場で過剰労働で倒れた人もいたみたいですよ、ヒルさん」

「そうなのか……なんかなあ。どんどん便利にはなっていくけど、それで全員が本当に幸せになれてるのかは分からないよな」

 技術や文明が進歩すれば、幸せになれると思ってたけど。



「教会に行く人も減ったらしいって友達から聞いたわ。未来の救済をお願いするより、今不幸にならないようにしないといけないしね」

 レイが言い終わるのと同時に、俺とイセクタで少し項垂うなだれる。未来は明るいだけじゃないんだなあ。

 と、拳を口に当てて考え込んでいる人が1名。


「そうか、そういうことか……」

 隣の俺にも聞こえない声でブツブツ呟いている。やがて、ガタンと立ち上がった。

「ヒルギーシュ、レイグラーフ、イセクタ・ユンデ、大事なことに気がつきました」


 いつもより声が大きかったので、周りの客も振り向く。おい、変なことだけは言わないで――


「神は死んだのです」


 割と言っちゃダメなこと言ったああああ!


「おい、兄ちゃん、どういうことだい?」

「神様が死んだって? 教会に祀られてるあの神様が?」

「冗談じゃねえぞ! 俺は毎日お祈りに言ってるんだ!」

「よく見たらあの哲学者じゃない」

「ちょっとちょっと、うちは教会と仕事してるんだ! 縁起でもないこと言わないでくれよ!」


 驚嘆と罵声が飛び交う酒場。無罪の俺達3人も完全に白い目で見られている。


「皆さん、何をそんなに叫ぶ必要があるんですか。私は、あくまで新しい時代の比喩も込めて、神は死んだ、と――」

「ご馳走様でした! レイ、払っておいて!」

「すみません、お会計お願いします!」

「皆さん、失礼しました!」


 俺とイセクタでアイクを抱えて酒場を逃げ出す。


「ヒルギーシュ、僕が彼ら1人1人に説明してもいいんですよ」

「火に油だよ!」

 神様、どうぞ生き返って俺達を救ってくれ!


―――――――――――――――――――――――――――――――――――

■メモ:ニーチェと神

 18世紀後半に始まった産業革命は、市民の暮らしを大きく変えました。手作業は機械生産に、馬車は蒸気機関車へと変わり、街並みも変わっていきます。


 確かに便利になりましたが、一方で工場による公害や労働時間の増加など、新たな問題も生まれてきました。文明の進歩は絶対に幸せに繋がると盲目的に考えられていたことが、実はそうでもないかもしれない、という考えが広まっていきます。



 そして、その余波は宗教にも及びました。キリスト教は近代文明とは相容れず、影響力を失っていきます。


 更に、カトリックとプロテスタントの対立の中で、教会組織はどんどん弱体化していきました。1000年も続いた信仰文化は簡単には途絶えないものの、教徒はキリスト教の教えが正しいのか、疑問を持ち始めます。

 


 そんな中で現れたドイツの哲学者がフリードリヒ・ニーチェ(1844~1900)でした。彼は、キリスト教を道徳の礎としていた人々が心の拠り所を無くした様を見て、小説「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で、主人公に「神は死んだ」と言わせたのです。


 それは正に、新しい時代の到来を感じたニーチェの考えでした。

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