泣く

ゲッター線の使者

第1話

 時計の音だけが寝室に響く。不気味なまでの静寂が僕の意識を覚醒させる。頭の中でいろいろと考えが浮かんできた。そのほとんどは嫌なことだった。仲間外れになった修学旅行、告白もせず遠くから見つめているだけで終わった恋、昨日の入社試験で何も話せず終わった面接。

 不安になって更に縮こまる。体の温かさが少しだけ気分を落ち着かせてくれた。考えれば考えるほど嫌なことが浮かんでくる。こんな時は寝て忘れるほうがいい。昔からそうだった。

 眠くなると、体が解けるような感覚が僕を包んだ。このまま溶けて生まれ変わってしまいたいと思う。嫌なこと全部放り出して別の人間になってしまいたいと思った。毛布の温かさは羊水のようで、僕を溶かした。

 眠りから覚めても、目の前は暗かった。けれど、冷たい夜の暗さとは違い、どこか暖かく優しい暗闇だった。一切の光がないけれど、私は一人ではない。根拠もなくそう思った。体が全く動かせない。寝起きの気怠さではなく、動かし方を忘れてしまったというか、動くものがないような、うまく言葉にできない不思議な感じだった。

 僕に一体何が起こったのか。何処にいるのか。今はいったい何月何日だろうか。僕はこの優しい暗闇に包まれてからずっと考えてきた。そうして考えて、一つの答えが導き出された。僕は、胎児なのだ。

 我ながら馬鹿な話だと思う。しかし、こうとしか考えられなかった。客観的に見てもっと現実的な意見もあるのだが、僕の体に存在する実感が、胎児という答えに導いたのだ。子宮の中には光は届かない。体が動かないのはまだ動ける体ではないからだ。そして、僕がこの状態になってからずっと、体感にして数ヵ月、一切の孤独を感じなかったのは、母親と一緒だったからだ。

 そこで疑問が一つ生じる。僕の母親は誰なのか。僕の知っている母なのか、それともまた違う母なのか。その答えを知るために僕ができることは、耳を澄ますことだけだ。この状況で唯一手に入る情報は音だけである。今までは意味のない音しか聞こえなかった。いや、音というものに体が慣れていなかった。いまならば、どんな音なのか判別できる。この根拠もまた実感だった。

 僕は耳を澄ました。 目が覚めたのは午前二時だった。足が毛布から出ていたようで、寒い。毛布の中で体を縮こまらせたら、自分の格好が胎児のようだ。

 何かが聞こえるまでずっとだ。そうしていると、断片的に言葉を聞き取れるようになった。

「なま」

「なまえは」

「……すけがいい」

 僕の名前について話しているようだ。以前の名前とは違った。そして、僕のこうなる前の両親とは違う声だったということは僕の今の親は以前とは違うようだった。特に感慨はなかった。僕は新しい母親と何か月も一緒だったから、愛着はそちらに向いている。前の母親ともそうだったのだろうが、覚えていないことよりも今の現実が僕には大事だった。

 時間がたつにつれ聞こえる言葉は明瞭になってきた。

「けんすけはどんな子に育つんだろうか。」

「あなたに似て優しい子になるわ。」

「君のように賢くなってほしいな」

 仲睦まじい夫婦のようだ。嬉しかった。前よりもずっといい。それと同時にこうも思った。前の両親もこんな時期があったのだろうか。僕にはどうしても想像できなかった。僕の知っている姿とは結び付かなかった。けれど、これは偏った考え方にちがいない。僕は両親に対してそんな判断を下せるほど彼を知らなかった。知ろうとも思わなかった。

 聞こえるのはいつも、希望に満ちた声だった。未来に夢をみている声だ。僕は、生まれることを祝福されている。その事実知ったときの気持ちは僕の語彙では言い表せない。それほどまでに心の内側から限りない暖かさがあふれた。泣きそうだったが、僕はまだ泣けなかった。なので、足を少し動かした。それに喜んでいる声がして、また嬉しくなった。

 希望の言葉は途絶えることはなかった。いつしかそれは重量を帯び始めた。今の親の素晴らしさを知るたびに、以前の親が、そして自分が思い出される。前の僕にはこのような祝福をされる程の価値はない。ずっと期待を裏切ってきたのだ。そんな僕が、生まれてしまっていいのか。そんな思いが日に日に強まってきたのだ。

 祝福は呪いに代わった。これ以上何も聞きたくなかった。何度も声を出してやめてほしいと言おうとした。けれど、声が出なかった。僕はこの時今まで息をしてこなかったことに気付いた。胎児の肺は機能しないのだ。僕の声は、出すこともできず、一方的に呪いは届く。耳をふさいでも、記憶は脳髄から浮上し僕を責める。

 そして、その日は来た。何かに吸い込まれたと思うと僕は外に出る、光が僕を襲う。私は思わず泣き声を上げた。

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泣く ゲッター線の使者 @Saty9610

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