荒天の彦星

短編読切

荒天の彦星

あと一週間で世界陸上が東京で催されると、盆とカール・ルイスが一緒に来た慌ただしさの中にあっても、呉の郊外は夜とはいえ余りにも人気が無かった。それもその筈。突然の荒天に見舞われ、人々は家へ引っ込んでしまっていた。その激しい雷雨にも関わらず老婆が裏通りを歩いていた。その右肩を借りながら、生気を失った男がその鍛えられた肉体を引きずってた。そのうち、二人は真っ暗なバーの中へと入っていった。老婆は男を椅子に座らせると、真っ暗だというのに手早くタオルを探し当てた。男の上へ手荒に掛けると、老婆はカウンターの奥へと消え、舌打ちのような音がしたかと思うと、薄暗いながらも電球が影を作り出した。老婆は次はキッチンへと赴き、鍋の置かれたコンロに火を入れた。表へ戻ると、男は磨かれたカウンターに突っ伏したまま、その刈り上げられた頭髪を晒していた。大きな、溜息が静まり返った店に沁み入り、次には、当に“ガミガミ“と形容すべき声が響いた。

「あんさん、酒は飲んでも飲まれるなって言うだろうに。全く。こんな日にそんな薄っぺらな肌着だけで外にいたら死んじまうよ。アタシが爺さんの命日だからってこんな夜遅くに海辺に行かなきゃ、そのまま波にさらわれてたのかもしれないよ。げんに服は流されちまって殆ど素ッ裸じゃあないの。」

あまりの喧しさに目を覚ましたか、男は呟きを漏らした。

「帰らな……。家内が待っとる。」

仄明るい空間に再び溜息が満ちる。

「あんさんねぇ。帰らなあかんのならなんで帰れるうちにやめないの。もう帰れないんだから今日くらい泊まっていき。アタシはこんなんなっとるのを放り出すほど 器は小さくないよ。」

「面目ない。」

男はそれだけ捻り出すと、数センチだけ浮かせた額をガクリと落とした。老婆はカウンター越しにペシペシと男の頬を叩いた。男はその左手をしばらく力なく触っていたが、突然に握り締めてしまい、それきり離そうとしなかった。

「ほれ、しっかりおし。寝んといて。」

「精魂尽き果てて、今にも寝てしまいそうで、婆さんの話を聞きたいんよ。」

「あんさんね、赤ん坊じゃ無いんだから。」

老婆は呆れ果てたように手を振り解こうとしたが、虫の息とはいえ縋り付いてくる肉付きの良い男の手を降り解ける訳もなく、仕方なく手を変える事にした。

「わかったから。なんか話してやるから。ただ、この格好だと腰にくるから一旦離して頂戴。」

男は存外聞き分けが良く、老婆は解放された手を擦りながら裏へと引っ込んでいった。静かな環境に引き込まれたか、弱々しい灯りの下、男の手がパタリと倒れた。程なく、老婆は大きな椀に注がれた味噌汁を持って男の隣に腰かけた。

「起きんさい。起きんさい。ほれ、お飲み。そう。慌てずゆっくりお飲み。遠慮するこたないよ。どうせ余り物さ。何?泣いてるのかい。泣くほどの事でも無いだろうに。味噌汁飲んで泣く人なんてアタシは他に爺さんしか知らんよ。爺さんが出征する前の最後の晩に食べながら泣いてたっけね。あの時はアタシも一緒に泣いたね。二人で差し向かいでぽろぽろ泣きながら食べたね。」

男は椀から殆ど顔を上げずにぼそりと呟いた。

「もっと話しとくれ。」

「随分と厚かましいこと。ま、いいさね。爺さんは学者先生のところの次男坊でね。アタシの家は成金の家で、子供が女しかいなかったもんだから、婿入りするってことで昔っから許婚だったんだ。ちょっとばかし細っこかったけど、背が高くてシャンとしたハイカラな人だったよ。アタシも女学校で鼻が高かったね。そう、あの時はまだ女学校って言ったね。アタシもちょろっとは袴を穿いたりしたねえ。戦争が厳しくなって殆ど着れなかったけどね。あんさん、何、笑ってんの。こんな婆さんが若かったことがそんなにおかしいかい。あんさんだってすぐ歳食ってアタシみたいになるんだから笑うんじゃあないよ。爺さんはあんさんよかよっぽどいい男だったね。いつでもパリッとしたシャツを着て、外套も埃一つなかったさね。」

だんだんと血が巡ってきたのか、頬に赤みが戻ってきた男が口を開いた

「カフェーにでも居そうな男だ。」

「カフェーだって!?そんな所行くお人じゃあないよ!浮気のうの字も有るもんか。誠実が服を着て歩いてるようなお人だよ。あの時分に何かとつけてアタシを立ててくれたようなお人がカフェーだなんてはしたない所に顔を出すもんですか……。ああ、今の人は喫茶店の事をカフェーって呼ぶんだっけね。ごめんねえ。うるさかったろう。昔のカフェーってのは今のキャバレーの事でね。間違ってごめんねえ。純喫茶には何度か連れてってもらったよ。この店も何度かいった所になるたけ似せて作ったのさ。ミルクホールにも行ったね。あの人が級友の家でカルピスをご馳走になったって話をした時に、アタシが『ボクも一度飲んでみたい。』なんて言ったもんだから、カルピスの置いてあるミルクホールに態々連れてってくれてね。あらヤダ。こんな年寄りが“ボク“だなんてね。滑稽よね。」

老婆に連られてか、男も僅かに笑いを浮かべて続きをねだった。

「それから?」

「そうね。女学生なんてしてたからか、アタシも世間知らずでね。それから何年かして、『あの時のなんと言ったか、そう、ボクは久しぶりにカルピスを飲みたい。』なんて口を滑らせたものでね。もう戦争が始まってたから、カルピスなんて手に入れようが無くてね。それをアタシは知らなかったもんだから。爺さんが持ってきたのをなんの気無しに飲んでね。次の日会いに行ったら会わせてもらえなくて。なぜ、っていつも取り次いでくれる士官様に詰め寄ったら、『アヤツは酒保の物を盗みよって、営倉に居る。真面目な奴だと思っとったのに見損なった。』ですって。顔なじみだったからか、無理を言って手紙だけは届けてもらったけれど、『カルピスは親父のセラーから頂戴したものであって、自分がこうなったのは一時の欲に負けて一升瓶をかっぱらったからである。だから、貴女が気に病む事は無い。ただ、貴女が私の身の上を案じて下さるのは嬉しい限りです。』なんて返ってきてね。そうね。あの人は筆まめな人だったね。予科練の間は三重の内だったから会いにいけたけど、呉に行ってしまわれてからは手紙をよく送ってくださった。今も大事に取ってありますけどね。」

男はぐいと器に残っていた分を干したが、まだ具合が良くならないようで、再び俯いていた。

「今も大事に取ってあるって言ったら、この指輪もそうよ。」

老婆は薬指の指輪を愛おしげに擦った。

「学徒動員ってあったろ。アタシが女工やってる時に端材を削り出して作ったのよ。ただねぇ、アタシの指の径で作った物だから、あの人の薬指には嵌らなかったって返信されたっけね。」

男は猶も俯いていたが、少しく胡乱気に身じろぎをした。それは今までは調子の良かった老婆が急にピタリと黙ってしまったからだった。その沈黙は感傷に浸っているものではなく、これから先は喋りたくないという性質のものと察してか、今度は男も先を促しはしなかった。老婆は男の前の椀を取り上げ奥へと引っ込んでしまった。ヂヂヂと不安定に明滅する電球に男はうつらうつら舟を漕いでいた。どれほど経っただろうか。老婆は再び味噌汁を並々と注いだ椀を持って戻ってくると、男の隣に腰を下ろし、あやすように背中を叩いた。

「嗚呼、アタシはあの人が恨めしい。なんだってあと一年で戦争が終わるって時に死んでしまうんだい。あの人はこの海で死んだのさ。この海であの人が死んだから、アタシはこの呉に引っ越したのさ。」

老婆が睨め付けた窓はひたすらに黒々とした景色とバチバチと猛雨の当たる音を返した。

「この海が今日みたいに波が高くなることはそうそう無いのにね。その日は急な嵐が来てみな総出で甲板を片付けていたんだってさ。そん時にパッと大波が被って。濡れ鼠になりながらも目を開けたら一人足らない。点呼を取れば爺さんが居ない。応援を呼んで海をさらっても、服しか見つからなかったと。水練達者なんて呼ばれてたのにね。一緒の墓に入ろうと言うてくれたんは出来そうも無し。終生一緒に居るって約束したんも反故にされてん。来世じゃ取っ捕まえてでも果たしてもらわにゃ。」

老婆から流れ出る激しい感情に気圧され、男はいたたまれなさげに合いの手を入れた。

「お元気そうですね。」

「この歳で元気じゃなかったら、くたばってるさね。全く、女一人で四十年以上も抛っておいて。それはもう、幸せにしてもらわなくっちゃね。」

老婆は席を蹴るとバーの角の神棚から何かを降ろした。

「こんな紙切れ一枚寄越したっきりってのは酷い男だと思わないかい?お陰様で目が殆ど見えなくなった今でも、誦んじてるから読みあげられちまうよ。『未だ内地と雖も、一度軍人としてご奉公するのであれば、未練を残さざるべし、との上官殿の言葉に従い、ここに一筆認めます。後事は、兄に万事宜くと頼んであるので心配は無用です。心残りがあるとすれば休暇で三重に帰った時に、貴女の体調が優れずに抱き損ねた事くらいのものです。』こんな遺言状があるかい?あんの助平!普通はもっと他に書く事があるものじゃあないかい。」

老体でまくしたてて疲れたのか、老婆は言葉を途切れさせた。男はただ薄っすらと笑みを浮かべていた。

「ごもっともで。」

「まあ、これを届けてくれた上官殿には頭が上がらないけどね。黒塗りされないようにって、三年越しに戦争が終わってから届けてくださったのだもの。ありがたや、ありが……。」

バンと雷光が走るや否や、電球がジワリと力を失った。一時の間を置いてバシャリと思い物が液体に落ちた音が鳴った。老婆は椀の中に突っ伏した男を起こし、味噌汁塗れの顔を叩いた。男はグニャリとしたままで、老婆は脈を取ろうと男の右手をとるや否やハッと硬直した。そっと小指から男の指輪を抜き取ると遺言状とともに三宝の上へとうやうやしく乗せた。

「これの神床にまします……。」

灯火の掻き消えたバーは、先程までの喧噪とうってかわって老婆の祝詞が響くばかりであった。

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