第77話 急転
騒ぐ三人を無機的に見すえていた秀忠は、ややあって、
「ときに、英勝院、そなたは仏のごとき女子であるな」
いきなりかまされる不可解な賞賛。
「「「 ―― ??? ―― 」」」
意外すぎる称揚に、お勝をはじめ全員がフリーズ。
「大御所さま……それは……?」
名指しされたお勝が、ためらいがちに問い返す。
「そうではないか。そなたはお福に愛児を害されたというに、その罪をゆるすばかりか、憎むべき仇にさえ助力を惜しまず、現にこうしておのれの不利益もかえりみず、口添えまでしてやるとは。わしには到底もちえぬ寛容さよ」
―― !? ――
「わしならば、わが子を
「い、いったい、なんのお話を……?」
青ざめるお勝とはうらはらに、
「お戯れが過ぎまするっ!」
真っ赤な顔で立ちあがるお福。
「戯れとな?」
冷笑をむける親父に、お福は地団太を踏む勢いで、
「いくら大御所さまとはいえ、なんの根拠もなく人を罪人呼ばわりとは! 病のせいで、いささか混乱なさっているのではございませぬか!?」
「根拠、か」
不気味に復唱した親父は、するどい眼光を腹心に向け、
「大炊、例のものを、英勝院に」
命令一下、土井は脇に置いた
「そ、それは……?」
はからずも、おれの気持ちを、お福が代弁する。
「これは、父上の元側室・お六が書いた文だ」
「お六の文!?」
お六は、家康最晩年の側室。
ジジイの死後は、忠輝の母・茶阿やお勝らと北ノ丸の比丘尼屋敷で共同生活を送っていたが、しばらくして喜連川藩世嗣・喜連川義親の後妻となり、鴻巣御所(古河公方館とも)に移っていった。
ところが、寛永二年(1625)、日光東照宮参詣中に急死。
まだ二十九歳の若さだった。
そんな不審死を遂げた女の手紙?
やけに不吉なニオイが……。
「お六は、かつて、そなたの部屋子であった者。それが、お六の
部屋子というのは、奥女中が個人的に使役している娘のことで、お六は、お勝の使用人として奥入りし、その後、家康のお手つきとなり、側室になったのだ。
「たしかに、お六の字にまちがいございませぬ」
お勝は、書簡にさっと視線を走らせて、首肯したが、つぎの瞬間、
「これは……まことにございまするか?」
その声音が、ダークな呻吟に変わる。
「お福が ―― 毒針で、市姫を殺めた!?」
読み終わるやいなや、絶叫する老女。
「市姫は、野遊びをしていた折、毒虫に刺されて儚くなったといわれておった。当時、部屋子であったお六は、姫の供をしていたようだな」
市姫は、お勝が産んだ家康の末子。
たしか、二、三歳で不慮の死を遂げたと聞いていたが、それが他殺だった!?
「市姫が……わたしの唯一の御子が……お福に……」
涙にくれるお勝に、親父はけだるげな一瞥をくれ、
「一部始終を見ていたお六は、お福らと取引をしたのだろう。口をつぐんでいたら、悪いようにはせぬと言いくるめられ、その日見聞きしたことを秘したのだ。その証拠に、姫の死後ほどなく、お六には父上のお手がついた。ただの部屋子だったお六が、だれの引きもなく、父上の目に留まるとは考えにくい」
「だとしても ――「おのれっ、お福っっっ!!!」
おれの発言は、殺気に満ちた咆哮にかき消された。
「おのれ! おのれ! おのれぇーっ!!!」
はじけるように飛びあがったお勝は、老齢とは思えぬ素早さでお福につかみかかり、両手で首を絞めはじめた。
まさに、さっき親父が言ったように『渾身の力をこめて』。
「っ、おっ、か、っど、」
お福も相手の腕に爪を立て必死に抗うが、理性の飛んだ女の執念は尋常ではなかった。
「っ、った、す、け……」
凍りつく室内。
だれもがその光景をまえにしながら、夢でも見ているような感覚に襲われ、微動だにできない。
ようやく我に返ったのは、周囲に異臭が漂いはじめた頃。
バタバタもがいていた四肢がヒタリと動きを止め、乱れた衣の裾からは、にごった液体がじわじわと流れだす。
実行犯の荒い息づかいだけが大きくひびく居室で、最初に呪縛が解けたのは家光だった。
「お、お福?」
おそるおそる這い寄るが、それに答える声はない。
「お福……お福、お福!」
力いっぱい揺さぶられても、完全に弛緩した体は不自然にゆれるだけ。
「お福っ!!!」
やっと生命反応がないことに気づき、悲鳴をあげる家光。
「ウソだ、まさか、そんな、イヤだ、お福ーっ!?」
悲痛な慟哭を発しながら死体にすがりつく将軍を、おれはふるえて凝視するのみ。
だが、親父と忠輝、千姫はそんな非現実的な光景をひややかに見守っている。
戦場経験のあるオッサンふたりはともかく、姉貴の強靭なメンタルは、これまでの過酷な半生で培われたものだろう。
―― などと、凄惨な現実から思いっきり逃避していると、
「英勝院」
親父は、最前とは真逆なやわらかい表情で呼びかけた。
対する女は、死体の前にペタンとすわりこみ、虚空を見すえたまま放心状態。
「英勝院よ、そなたほど聡明な女子が、なぜあのようなたくらみに組した?」
静かな問いかけに、お勝は数回まばたきを繰り返したあと、ゆっくりこちらに向き直った。
「市姫の葬儀の折、お福が申したのです」
若干しゃがれてはいるが、落ち着いた口調で応じる。
「『市』という名は、先代さまがつけてくださいました。絶世の美姫と
生前、信長を憎んでいた家康さえも、お市の方の美貌はみとめていたようだ。
となりに座る姉をながめながら、会ったこともない祖母の麗容を想像していたら、
「お福が申すには、市姫の訃報を耳にした御台さまが、『わが母にあやかろうなどとは図々しいにもほどがある。夭折したは、名を盗んだ罰。いい気味じゃ』と、あざ笑っていたと」
とんでもない告発がつづいた。
「その言、そなた自身が聞いたのか?」
おだやかに尋ねる秀忠に、お勝は
「いいえ。悲しみのあまり心が激し、お福の言葉をうのみにして、御台さまへの恨みをつのらせておりました」
「戦火の中、多くの身内を失ってきた母上が、そんなことを言うはずがありません!」
おふくろは赤ん坊のとき、実父・浅井長政を、十一歳のときには母・お市の方と養父・柴田勝家を亡くし、二番目の夫・豊臣秀勝は朝鮮の役の陣中で没し、大坂城落城では長姉・茶々と甥の秀頼を失っている。
何度もつらい別れを経験してきたおふくろが、そんな非道な罵声をあびせるわけがない。
ついムカついて睨みつけるおれを、お勝は凪いだ目で見返し、
「ええ、いまにして思えば、おっしゃるとおりです。このように不明な母をもって、市姫もあの世でさぞやなげいていることでしょう」
そう言って、切なそうに笑った。
そして、おもむろに傍の茶碗に手を伸ばし、一気に呷った。
「大御所さま、大御台さま、そして、国松さま、申しわけありませんでした」
おれたちに向かって、深く頭を下げたお勝は、その姿勢のままこと切れた。
「さて」
静寂を破ったのは、最上位の男。
「阿茶、なにか申したき儀はあるか?」
「いえ、事ここにいたっては、なにも申しあげることはございませぬ」
問われた老女は、諦観の色をたたえ、ほほえんだ。
「ならば、わしからひとつ聞きたい。そなたは、早くに母を亡くしたわしと忠吉の面倒を見てくれた。わしも忠吉もそなたを実母同然に慕っておった。しかるに、なにゆえ、わしの妻子や忠吉殺しに関わった?」
糾弾する親父の顔が苦しげにゆがむ。
「忠吉さま、秀康さま、長丸さまについては、お亀の独断。市姫さま・幸松さまは、お亀とお福の共謀でなしたこと。なれど、大御台については、わたくしが手を下しました」
「なぜだ? そなたは、英勝院とはちがい、お江を憎む理由はあるまい」
そうか。
市姫の暗殺は、お勝を自分たちの陣営に引きこむための策だったのか!
もし、有能なお勝が、おふくろの側についたら、お亀らによる将軍位簒奪計画は困難になる。
だが、いくら怜悧なお勝でも、はげしく感情をゆさぶられ、憎悪をかきたてられれば、正否損得を度外視して、お江に敵対する勢力にくわわる確率があがる。
それが、市姫暗殺とその後の誘導だったのだ!
あまりにも卑劣な犯行動機。
最後に残った老害を怒り心頭でねめつけるが、阿茶はおれのことなど歯牙にもかけず、大御所ただひとりを見つめ、
「大御台を害したは、先代さまが、お気の毒だったからです」
先ほどの問いに、簡潔に答えた。
「気の毒?」
「先代さまは、就寝中よくうなされておいででした。『上総介さま、お赦しを!』と、涙ながらに懇願なさって」
上総介 ―― 信長のことだ。
「長年植えつけられた恐怖は、先代さまのお心の奥深く刻まれ、信長横死後、何年経っても、悪夢となってさいなみつづけたのです。
そんな憎き男の血族に、あのお方が苦心の末につかんだ天下を渡すことなどできましょうや?」
たしかに、第六天魔王と称され、恐れられた信長は、家臣だけでなく同盟者・家康にとっても、ハンパないプレッシャーをあたえる存在だったろう。
あのふてぶてしいタヌキジジイでさえ、終生その影におびえるくらい、信長の威圧感というのはデカかったらしい。
「お福の子を嫡出と偽装したのは、お亀とお福でしたが、先代さまはそれを黙認されただけでなく、事後処理を上野介(本多正純)に命じました。それで、わたくしにはお心の内がわかったのです」
まるで世間話でもするように無造作に自供する老女は、ふいに自分の茶碗を手に取って、もてあそびはじめる。
「大御台は、国松の子を御台所・孝子の猶子としたうえで、四代将軍に据えようと画策していました。ゆえに、信長の血筋の者が世子とみとめられる前に、なんとしてでも排除せねばならなかったのです」
「曲直瀬道三に毒を盛ったのも、母上を確実に殺すためか!?」
おれの怒声に、阿茶は一瞬だけこちらを見たが、すぐに視線をもどし、
「道三は当代一の名医。万が一にも助かってもらっては困りますゆえ、江戸に向かう一行が尾張領に入った折、お亀の手の者が千熊どの(稲葉正勝)に
悪びれもせず語る老女に、背筋が寒くなる。
京都滞在中、江戸からの急使でおふくろの急変を知り、おれが帰府すると決まったとき、稲葉のゴリ押しで、やつらも一行にくわわったが、あれは途中で道三Ⅲを
おそらく、稲葉はひそかに尾張に使者を送り、お亀におれたちの動きを知らせて、帰途を妨害するべく策動したにちがいない。
「やれやれ、思惑がはずれましたな」
場の空気とはかけ離れた晴れやかな口ぶりで、老女は嘆息した。
「先代さまに従順な秀忠さまなら、一度決した以上、いさぎよくあきらめて、受け入れてくださると思うておりましたが」
「阿茶?」
親父が呆然とつぶやく。
「都合よく、国松のほうから将軍位を放棄して、宗家から出て行ってくれたゆえ、あとは邪魔者を廃しつつ、折を見て、家光さまから義直さまに将軍位をゆずるだけでしたのに」
「ふざけるな!」
忠輝の大喝がさく裂する。
「多くの無辜の者たちを害し、本来の継承者からその地位を奪った罪、万死に値する!」
「しかたありませぬ。亡き先代さまのお望みになったことを、なんとしてでもかなえてさしあげねばならなかったのですから」
「……狂っている」
莞爾と笑う老女は、もはや同じ人類とは思えなかった。
「なんとでも申すがよい」
突如、敵意まみれのまなざしが、おれたち
「憎き信長の縁者どもめ、この天下は徳川のもの。けっしてそなたらには、渡さぬ!」
真っ黒な怨嗟を吐きちらした阿茶は、悠然と毒茶を飲み干し、うす気味悪い笑顔をうかべて、前のめりに倒れた。
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